AIKA

水晶でできた城の中で、懸命に積み木を積み上げている男の子がおりました。

彼には名前がありませんでした。物心ついた時から、この城の中で積み木だけを相手に生きてきたのです。

積み木は、彼にとって全てでした。

最初は、噛んでみたり、転がしてみたり、落っことして音を楽しんだりしていましたが、やがて「積み上げる」ことを覚え、彼はそれに夢中になりました。

積み木はたくさんありました。部屋に一つもなくなったと思ったら、別の部屋に行けば、からなず大量の積み木がありました。

背が届かないほど積み木を積み上げたら、彼は別の積み木で階段を作って、どんどん積み木を積み上げていきました。

彼は思いました。「この積み木を、天井に届くほど積み上げてみよう」と。

ですが、彼の最初にいた水晶の部屋は、とてもとても天井が高くて、見上げても、ちょっとやそっとじゃ届きそうにはありません。

彼は重厚な土台が必要だと考えました。それまで積み上げてきた積み木を囲むように、新しい積み木を何重にも並べて、何重にも積み上げました。

彼はその土台の上にも積み木を積み上げて行き、中心になる積み木達が崩れないように、しっかりとした塔のような積み木を作ってゆきました。

足場になる積み木も必要でした。彼は毎日、朝日が射してきて、透き通った水晶の城が光を通すのを待ってから、積み木を取りに行き、足場を作りました。

それから、塔になる積み木を、どんどん積み上げ、時々足場から降りて、積み木のバランスを見ました。

何処か歪んでいるところは無いか、積み上げかたの足りないところは無いか、入念に観察しました。

日が落ちて城が真っ暗になると、彼は絶対に積み木の塔にぶつからない場所で、丸まって眠りました。

ついに天井に手が届くところまで来ました。「もう少しで完成だ」と、彼は思いました。

今まで積み上げてきた積み木の上に、さらに積み木を重ねていきました。

塔の頂上になる積み木を手にして、彼は心も軽く足場を登っていきました。

最後の積み木を、天井と塔の間に置こうとした、その時です。

「ねぇ、何してるのー?」と、甲高い音が遠くから聞こえました。

男の子は音のほうを振り返りました。その時、腕が積み木に触れました。

「しまった」と彼は思いました。バランスの崩れた積み木が、音を立てて一気に崩落していきます。

塔の半分ほどの場所で、崩落は収まりました。土台をしっかり作ってあったので、完全に崩れてしまうことはありませんでした。

彼は落胆して、足場を降りてきました。「もう一度やり直しだ」と彼は思いました。

「ねぇってば。あなた何してるの?」と、甲高い音がまた聞こえました。

音のほうを見ると、男の子と同じほどの背丈の、ひらひらした衣を着た女の子が、部屋の出入り口から歩いてきました。

男の子は、初めて見る「他人」を、しげしげと見つめました。

口をパクパクさせて、甲高い音を出す、「他人」を見て、男の子は不思議に思いました。

「あなた、名前は?」と女の子は言いました。

男の子は、音の意味が分かりませんでした。でも、口をパクパクさせると音が出るのだと言うことは知っていたので、「あー」と言いました。

「あー?」と、女の子は不思議そうな顔をして聞き返しました。

男の子は、まだ何か音を出さなきゃならないようだと思って、「くー」と喉を鳴らしました。

「くー?」と、女の子はまだ聞いてきます。

男の子は、もう一度、「あー」と言いました。

「アクア? アクアって言うの?」と女の子が言ったのですが、男の子はそれ以上、音の出し方を知りませんでした。

男の子は、黙って、散らかった積み木を拾い集めました。

「積み木で遊んでたの?」と女の子は言いました。「ずいぶん高く積み上げてたみたいだけど…」

男の子は、黙ったまままた積み木を積み上げ始めました。

「崩れちゃったのね。手伝ってあげる」と言って、女の子は散らかった積み木を拾い集め始めました。

「ずいぶんたくさんあるのね。待っててね」と女の子は言って、両腕に抱えられるくらい積み木を集めると、男の子の足元に置きました。

「向こう側にもたくさん散らかってるから、集めてくるわね。あなたはどんどん組み立てて」と言って、女の子は塔の反対側に行こうとしました。

そして気づいたように振り返って、「私の名前はアイカよ」と言いました。

さっきと同じ、「名前」と言う音を聞いて、男の子はその音に何か意味があるのかと考えました。

ひとしきり積み木を集めてきてから、男の子に、アイカは言いました。

「あなた、全然しゃべらないわね。言葉、分かる?」

男の子は、その音を無視して積み木を積み上げ続けました。

「ちょっとアクア。返事くらいしてよ」と、アイカは言いました。「ほんとに言葉分からないの?」

男の子は無言でした。

アイカは、その無言を肯定の意味だととらえたようでした。

「そっか。じゃぁ、私の真似をしてみて」と言って、積み木を取りに足場から降りて来た男の子に指を突き付けました。

男の子は、そのしぐさにビックリしました。今まで、男の子は何かを指さしたことがなかったからです。

「良い? 私の名前はア、イ、カ。言ってみて」と、アイカは自分を指さしながら、繰り返して言いました。「アー、イー、カー」

男の子は戸惑いながら、繰り返されたその音を、口の形をまねしながら言いました。「あー」

「イー」と、アイカは言いました。

「いー」と、男の子は初めて出す音に戸惑いながら言いました。

「カー」と、最後の音が繰り返されました。

「かー」と、やはり初めて出す音を言いました。

「言えるじゃない」と言って、アイカは手をたたきました。パンっと言う音が鳴り、男の子はまたビックリしました。


それから、アイカは度々水晶の城を訪れるようになりました。

アイカに「アクア」と名付けられた男の子は、一度も水晶の城から出たことがなかったので、アイカがいつも日暮れ前には何処かへ去って、

日の出を過ぎたころにまた現れる、と言う行動がよくわかりませんでした。

ですが、アイカはいつも、「バイバイ」と言う音を立てていなくなり、「オハヨー」と言う音を立てて現れるので、アクアもその音を真似するようになりました。

塔を作り直すのには、そんなに時間もかかりませんでした。散らかった積み木を集める役目を、アイカが代わってくれたからです。

最後の一つの積み木を積み上げたとき、アイカが下のほうで手を叩いて、パンパンと言う音をたてました。

アクアは、アイカが「嬉しい時」に、手をパンパンさせるのだと分かっていたので、きっと一緒に喜んでくれているに違いない、と思いました。

仕事を終えたアクアが、足場の階段を下りていた時、不意に足場がぐらりと揺れました。

「危ない!」と、アイカが叫びました。

それはきっと危険を知らせる信号なのだと気づいたアクアは、塔が崩れた時よりもひどい音を立てて崩れてくる足場を一目散に走りおりました。

それでも間に合わないと分かった瞬間、床に飛び降り、アクアは事なきを得ました。

ですが、アイカの姿がありません。

アクアは、背後に出来た、崩れた積み木の山を見て、ぞっとしました。

「アイカ!」と呼びましたが、返事はありません。アクアは、積み木の山を掘り返し、アイカの姿を探しました。

その予感は的中していました。崩れてきた積み木の下敷きになったアイカが、ぐったりと横たわっていました。

「アクア…」と、アイカが絞り出すような音で言いました。「バイバイ…」

「アイカ!」と、アクアはどうしようもなく叫びました。

すぅっと、アイカの体が透き通りました。そして白い霞のように、ふわりと消えてしまいました。


アクアは、床に座って積み木の塔を眺めながら、またアイカが「オハヨー」と音を立てて、部屋の出入り口から出てくるのを待っていました。

ずいぶん長い間待っていました。夕日が沈み、朝日が射し、光と暗闇が水晶の城を何周もする間、ずっとアクアは待っていました。

ついにある夕方、アクアは静かに立ち上がり、城の出入り口へ向かいました。

城の外には、真っ青な花畑が何処までも続いていました。夕日の中で、その花畑は紺色に変わり、やがて真っ黒になりました。

その花びらの所々が、白く輝いて星座を形作っていました。

眠っている間のことは、何も覚えていないアクアにとって、それは初めて見る風景でした。

アイカはきっとこの世界のどこかにいるに違いない、とアクアは思いました。

「アイカ…」と、アクアは呟きました。「マッテテネ」

そして、花畑の中へ歩みだしました。