A Shooter 5

赤毛の少女が、暗闇にうずくまり、泣いている。アノイは、駆け寄ろうとした。だが、彼女の脚は動かない。アノイは自分の足元を見た。闇の中に、くるぶしまで埋まっている。

幼い少女の周りに、「悪しき者」が近づいてくる。それは悪夢の中に登場する、幽霊や異形の魔物の姿をして、少女に恐怖を与えていた。

少女を取り巻く「悪しき者」の向こうに、赤毛の女性が立っている。アノイ達の母親だ。「アノイ。泣いてるから悪魔が来るのよ」と、母親は言う。「泣き止みなさい」

その時の母親の表情は冷淡で、発する言葉も人間味が感じられない。アノイの心の中で、母親は無情な監視員だった。

幼いアノイは、歯を食いしばり、涙を止めようとした。腫れあがった目元を、何度も拭う。

「アノイ、大丈夫よ」と、アノイそっくりの幼い少女が、幼いアノイに駆け寄ってきた。エスカだ。

少女のエスカは、アノイの頭を撫で、空を指さして言う。「怖いのなんて、お月様に祈れば居なくなるよ。ほら、今日のお月様、真ん丸だよ?」

アノイが指をさす方向から、月の光が射してくる。完全な暗闇を奪われ、悪夢達は消え去った。

小さなエスカが言う。「アノイ。怖い時は、胸に手を置いて、『I see』って3回言うと良いんだよ。光が見えれば、悪い夢なんて、消えちゃうんだから」

「本当?」と、アノイはエスカに聞く。エスカは、にっこり笑って頷いた。「本当だよ」と言って、少女のエスカは消えた。

「エスカ。何処に行ったの?」と、少女のアノイは立ち上がって闇の中を探す。「置いて行かないで。エスカ。私、何処に行けば良いの?」

「こっちだよ、アノイ」と、エスカの声だけが闇に響く。「鏡を見て。いつも私達、一緒でしょ?」

「鏡…」と言って、15歳のアノイも、幼いアノイも、闇の中に鏡を探した。

月の光の中に、磨かれた姿見があった。そこには、自分と色違いのワンピースを着て、左目の下にほくろのある、アノイとそっくりの少女―エスカ―が映っていた。

そのエスカは、アノイの知らないたくさんの「友達」を周りに連れていた。

小さな羽を備えたフェアリー達、風と一緒に歌うオーク達。チューリップの花の中には小さな少女が眠っていて、いつか出逢う大冒険を夢見ている。

白い貝殻が海に打ちあがるのは、人魚が恋を叶えた印。魔法のポットの中には何でも相談に乗ってくれる小さなおばあさんが住んでいる。

古い靴には虹の向こうに飛び立つ力がある。キュービッドはいつでも地上を眺めて、恋の矢を誰に射るべきかを吟味している。赤い屋根の家があったら、きっとそこは猫達の集会所。

海に向かう男達は、恋人の名前のタトゥーを腕に刻む。心は、いつでも愛しいものと一緒だ。

15歳のエスカは夢を見ている。あの人が、いつか自分の名前を腕に刻んで、心はいつも共にあると誓ってくれる日が来ることを。

15歳のアノイは、そのエスカに嫉妬していた。親から決められた相手でもなく、自由に自分の心を許せる相手を見つけて、将来と言う、アノイにとっては漠然としたものの中に、夢を描けるエスカに。

私は、ずっと羨ましかったんだ。と、アノイは気づいた。自由奔放なエスカ。悪魔なんて怖がらない、たくさんの心の友達、心を守ってくれる味方を持ってるエスカ。

アノイが肉を配ってる間に、エスカはずっとしゃべり続けてる。どれだけワニを捕まえるのが大変で、殺すときには何度も何度も心の中で謝るんだと言うことを。

エスカは、自分の心を隠さない。相手が困ってても、自分の一番強く思ってることを、すぐ言葉にする。言葉にできる。それは、心の中に、彼女を応援する「味方」がたくさんいるから。

周りの大人達は、15歳の娘達に、罪悪感を抱かせながらワニを屠ってもらっていることを、気にしているかもしれない。

でも、エスカはそれで給仕係をやめたいなんて言わない。自分の仕事だってことに責任を持っている。でも、辛い事はしっかり言葉にして吐き出す。

それで世界が、この「灯台」のみんなが、敵になることなんて無いって信じてる。悪魔が来ることなんて無いって、信じてる。

私は疑ってばかりだ。私の信じられるものは? こんな病にかかって、神様にも見捨てられた、私が信じて良いものは何?

15歳のアノイの目から、涙がこぼれた。

鏡の中のエスカは、泣いていない。「アノイ、信じようよ」エスカは言う。「神様が居なくても、私達、みんなが居るじゃない。私達、一人ぼっちじゃないよ? 悪魔なんて、私達に近づけるわけないわ」

恐怖の闇で覆われていた「世界」から、闇が剥がれ落ちた。そこは「灯台」のある海辺で、遠くから誰かが呼び掛ける。

「おーい。アノイ。何処に行ったんだ?」

その声のほうを見ると、「灯台」の住人達が居た。

「アノイ、いつもありがとう」

「アノイ、あんたは、よく気の付く子だね」

「アノイ、いつか、みんなで村を作ろう」

「アノイの旦那さんはどんな人かしら? きっと幸せ者になるわね」

「アノイ、カインの所に肉を持って行って」

アノイ、アノイ、と、優しく呼ばれる声のほうに、15歳のアノイはおずおずと踏み出した。


壊れた波止場の夕日の中で、アノイは意識を覚ました。

「長く眠ってたね」と、私は声をかけた。「気分は?」

「不思議な夢を見てた」と、アノイは呟いた。「でも…これも、夢なの?」

「さぁ、どうだろう? 夢にしたいなら、そうすれば良い」私は、まだ夢見心地の少女に言った。「夢で終わらせたくなかったら、ちょっとは信じてみても良いんじゃないか?」

都合よく、遠くからアノイを呼ぶ声がした。エスカだ。

「明日のワニを取りに行かないと、日が暮れちゃうー」

アノイは普段の仕事を思い出して、飛び起きると、エスカのほうに駆けだした。

双子は、寄り添いながらワニ園のほうに走って行く。アノイの心を支配していた「悪魔」は、日射しの中に消えた。


私は、その日、強烈な違和感を持った。何かの意識が、頭の中に響いてくる。それは、混乱と混沌を求める、子供のような意識だった。

「灯台」の階段で眠っていた私は、背後から誰かに刺された。痛みに悲鳴を上げると、後ろに座って眠っていたはずの、仲間の一人が、ワニの骨を削ったナイフで私の背中を刺していた。

突然の襲撃に、私は備えをしていなかった。まさか、この「灯台」の中で、誰かから攻撃されるなんて、夢にも見ていなかったんだ。

傷口を確かめる暇もなく、襲撃者は私の肩を押さえ、刃をギリギリと押し込んでくる。左胸の動脈が、僅かに裂けた。

「止めろ! 何してる!」と、マイクが叫んだ。マイクを含めた数人が、私の背中にナイフを突き立てた仲間を取り押さえ、襲撃者は私の背からナイフを引き抜いた。

私は、治癒の魔術を使おうとしたが、出血のほうが早かった。魔力をコントロールする力も、血液と一緒に体を離れて行く。

「オルガ!」と、誰かが呼んだ。私は、もう意識がもうろうとして、その声を確かめることもできなかった。

「血を止めて! 早く、止血を…」と誰かが言って、その傷が取り返しのつかないものであることを知ったようだった。

私は、死ぬんだ。そう悟った。悔やまれるのは、戦場に帰れなかったことだ。それと一つだけ「医者」としてもやり残したことがある。

イオの舞踏病は、完治していない。

だけど、私は彼女達を信じることにした。きっと、大丈夫。私達にも、ウィルスに支配される者達にも、明るい未来ってものはある。きっと。

そう念じて、目を閉じた。体から、意識が離れた。魔力を持つ者は、自分の意志以外で、星の外に放り出されることはない。

私は、私の死体を見て、まだ傷口に布をあてたり、意識を取り戻させようと、頬を叩いてくれている仲間達に、少しすまない気がした。

「もう良いよ。もう、充分だ」と声をかけると、エスカが何かに気づいたように顔を上げ、霊体であるはずの私のほうを見た。

「オルガ…」と呟く。目の焦点からすると、たぶん姿は見えてない。でも、此処に私が「居る」事は分かったみたいだ。

私は、「じゃぁな、エスカ。アノイと仲良くしろよ」と声をかけて、宙のほうに向かった。

迷いはない。この星を離れたら、何処に行こうか。素晴らしい世界って言うものが、観える所が良い。

白い羽のような光が、降り注いできた。