Ash EaterⅡ 序章

住み慣れた部屋、住み慣れた屋敷、成長を見守った家族、そんな風に思っていた。

遠き日に分かれた、血のつながった家族には、もう会うことはない。

8歳で住み込みの小間使いになった旧家は、少し変わっていた。誰一人、家で食事をしないのだ。

旧家ともなると、そんなものか、暮らしぶりが庶民とは違うのだ、と少年は思っていた。

その家には、幼い一人息子がいた。見た目の年齢は、少年とほとんど変わらない。一人息子は、遊び相手を求めて、夕方、仕事中の少年によくじゃれついてきた。

普段重いもを持ったりしている分、少年のほうが少しだけ力が強いはずだが、この一人息子にじゃれつかれて、レスリングが始まると、必ず少年は疲れ切って負けてしまうのだ。

雇われているお屋敷の一人息子を、投げ飛ばすわけにもいかない。そんな理由を見つけながら、少年は今日もレスリングに負けてしまった。

「ナイト様は、お強いですね」と、少年は言った。「僕は、到底勝ち目がない」

「そんなことないよ。ポルクスが大人になったら、僕のほうが負けちゃう。僕、普通の子より成長が遅いんだって」

一人息子は不満げに言った。

「良いな。ポルクスは。いつか大人になって、この屋敷から出ていけるんだから」

「ナイト様には、大切なお母様とお父様がいらっしゃるじゃありませんか」と、ポルクスは言った。

「成長が遅くったって、ナイト様も大人になれます。いつか僕も大人になって、このお屋敷から旅立つ日が来るでしょう。そうしたら、ナイト様にたくさん手紙を書きます。必ず読んで下さいね」

そう約束を交わして、一人息子は「うん。僕、何べんだって読むよ。手紙が擦り切れるくらい読むから」と答えた。


昔の夢を観て、少年は子供のままの自分の手を見た。

これは何かの呪いなのだろうか? 疑問をぶつける相手もいない。見てしまったあの日を、少年は今まで何度恨んだだろう。

コートを着て出かけて行った奥様が、いつも身に着けているピアスを片方忘れて行ったのを見つけて、少年は暗くなり始めた夕方の街に、奥様を探しに行った。

表通りから外れた場所で、奥様はわき道にそれた。

待ち合わせをしていたかのように、奥様は一人の青年と人気のないわき道で出会った。

奥様が青年を抱き寄せたのを見て、少年は物陰に隠れ、「奥様が、浮気を?!」と、心の中で叫んだ。

だが、それよりもひどいものを見た。

奥様が、青年の首筋に噛みつき、血をすすり始めたのだ。

少年は、恐ろしくなって、隠れていた物陰から逃げ出した。

その後姿を、奥様に見られた。


お屋敷に戻ったのが間違いだった。でも、当時わずか10歳の子供だった少年は、雇われ先以外、行く場所が無かった。

閉じこもっていた屋根裏部屋から、当時のメイドに階下に呼び出された。

居間で、正装姿の奥様と旦那様が待っていた。

「ポルクス。見てしまったのだな」と旦那様に問われ、10歳の少年は正直に「はい」と答えた。

「このまま、お前をただの小間使いにしておくわけには行かない」と言って、旦那様は一枚の羊皮紙を取り出した。

「契約を改める」と旦那様が言うと、陰気な執事が少年の指をナイフで傷つけ、契約書の羊皮紙に血の指紋を押させた。

「今日から、お前はこの館の者が血に飢えた時、その血を差し出し、この館の者は病んだ時には、代償を惜しまないことを誓うのだ」と、旦那様は言った。

「それはつまり…私も、いつか血を飲まれて死ぬと言う事ですか?」と、少年は聞いた。

「死ぬかどうかは、その時による。お前は終生、吸血鬼のしもべとして働くが良い。この権利の施行は、館の主に託されるものとする」と旦那様が言うと、その言葉通りの文字が、羊皮紙に浮かび上がった。


それからどれだけ過ぎただろう。お屋敷の一人息子は、ゆっくりではあるが確実に成長し、いつか少年の背を追い抜いた。

レスリングにも、当たり前に負けるようになった。それどころか、背の伸びた一人息子は、いつまでも小柄な少年を抱き上げてジャンプし、1階の屋根の上に乗せてしまえるほどになった。

「ナイト様~。困りますよ~。夕方になると元気なるんだからぁ!」と、庭木を剪定中だった少年は苦笑いして文句を言うが、悪戯好きな一人息子は中々屋根からおろしてくれなかった。

やがて一人息子は寄宿学校に通うことになった。

屋敷には、父母宛ての他に、少年に宛てた手紙が届くようになった。

得意な科目のこと、寄宿学校で出会った友人達のこと、夜間就学の間の様々な催し物のこと、お屋敷の一人息子は、学校生活を楽しんでいるようだった。

ご令息は、きっと僕を励まそうとしているんだ、と少年は思った。少年が果たすはずだった約束を覚えていて、代わりに手紙を書いてくれているんだと。

少年は、やがてそんな生活に慣れて行った。自分は何年経っても変わらない。10歳の時のままだ。お屋敷から出て行くことも、大人になることもない。

何も変わらない。でも、それも良いかもしれない。そう思って、少年はお屋敷に仕え続けた。

ある日、一人息子が倒れたと、知らせを受けた。

お屋敷に一時引き戻された一人息子は、過度の拒食による、衰弱だと医師に診断された。

少年は、運命の日が来たと、覚悟を決めた。

寝室でご令息と2人きりになった少年は、左手にナイフを滑らせ、ご令息の口元に、血液を滴らせた。

その途端、ご令息はカッと目を開き、血を吐き出した。そして、真っ赤に光る眼を少年に向け、「二度と同じ真似をするな」と言った。

少年はその時、悟った。この方は、奥様や旦那様のように、僕が従わなければならない、この屋敷の主になる方なのだ。僕は終生、この屋敷から逃れられないのだ。

少年の中で、何かが終わった瞬間だった。


「ポルクス。ポルクス。起きろ」と言われて、ポルクスは庭で目を覚ました。呼びかけていたのは、屋敷の主となった一人息子だった。

庭仕事の休憩中、陽だまりがあまりに暖かくて眠ってしまったのだ。

気づけば、夕焼けも遠のき、パンパネラである主人が普通に出歩ける時間帯になっている。

「すいません。まだ落ち葉を拾いきって無いのに…!」と少年が言うと、主は「今日はもう良い。風邪を引かないうちに屋敷に入れ」と言って、先に立って歩き始めた。

その後姿を見ながら、少年は成長した兄弟を見るような気分を味わうと共に、全く変わらない自分を呪うのだった。