2週間後、すっかりナイトはベッドから起き上がれなくなっていた。
豚の悪夢にうなされ、昼間は良く眠れない上に、起きれば血液のスープか血の腸詰を必ず食べなければならない。
拒食症で体力が減っていた時とは裏腹に、精神的に追い詰められている状態だ。
「ナイト様…お加減はいかがでしょうか」エリーゼが、良く冷やしたグラスワインとリンゴを一つ持って来てくれた。
「黒人霊歌を歌いたくなって来た」ナイトはなんとか体を起こし、ベッドの上で冷たいワインを飲んだ。「神と言う物は、乗り越えられない試練を与えないと言うが…これは、乗り越えがたい災難だな」
「急に食事の内容を変えると、人間でも体を壊しますもの」
エリーゼはサイドテーブルの椅子に腰かけ、果物ナイフでリンゴの皮をむき始めた。
「ルシル様のお言いつけは、今日からやめにします。お体に障るなら、『改善』とは言えませんから」
一口大に薄く切ったリンゴを小皿に丁寧に乗せ、エリーゼはナイトにリンゴを勧めた。
爽やかな香りのフルーツを噛みしめながら、ナイトは自分がずいぶん疲れていることに気づいた。
試しにエリーゼの首筋を見てみたが、噛みつこうと言う気は一切起きない。
ナイトは、段々何が正しいのかわからなくなってきた。腹がいっぱいになるほど生血を吸うことを想像してみたが、せっかくワインとリンゴで治まっていた胸焼けがひどくなるだけだった。
「ナイト様! 大変です!」と、ポルクスが寝室に飛び込んできた。「失礼いたしました。ノックもせずに…」と、一人で慌てている。
「構わん。何が起こった?」リンゴを噛みしめながら、無気力にナイトは聞いた。
「ルイーゼ・エンペストリー嬢が、お見えです」とポルクスは言った。
ナイトとエリーゼは目を丸くしたが、ナイトが「肖像画に何か細工がされていたかな」と言うと、2週間前のドヤ騒ぎを知っているエリーゼとポルクスは納得したように頷いた。
正装姿に着替えて来たナイトが応接室に行くと、執事に招き入れられたらしいルイーゼは、緊張した面持ちで待っていた。
ルイーゼは、肖像画と同じ、真っ黒なドレスを着て、明るいサラサラとした長い赤毛、そしてリッドによく似ている明るい茶色の目をしてた。
「はじめまして。ナイト・ウィンダーグ様。私、ルイーゼ・エンペストリーと申します。この度は、私を選んでくださって…」
台本でも書いてあったかのようにつらつらと喋るエンペルトリー嬢を遮って、「少し誤解がある」と、ナイトは言った。
「私が、あなたの肖像画を残しておいたのは、ちょっとした顔見知りに似ていたからです。その者達を驚かせようと思っただけだ」
ナイトがそう言うと、エンペストリー嬢は、胸につかえていたものが下りたように、ふーっとため息をついた。
「そうですわね。そんなに簡単に心持が変わるわけはありませんものね」
エンペストリー嬢はやつれたナイトの顔を見て、「ルシルの叔父様が、私に会うまでに、貴方に食事を改善させるなんて言っていましたけど、その御様子では相当な負担になっていたのでしょう?」と聞いた。
「睡眠不足と悪夢と胸焼けに悩まされるようになりました」隠すでもなくナイトは答えた。「ある意味、拒食症より辛い」
「私も、少し努力をしたのですが…。ここ2週間の食事を、フルーツとワインだけにしたんです」
吸血鬼としてはジョークにあたるらしく、エンペストリー嬢は口元を隠しながら笑った。
「けど、無茶が過ぎて、昨日、輸血パックを3リットル空けてしまいました」
「リバウンドにご注意を。せっかくの美貌が台無しになりますよ」ナイトは婦人に対する最低限の礼儀を持って述べた。「体に障るなら、改善とは言えない」
「食事のことさえ乗り越えられれば、歩み寄れると思ったのですけど…私には、血を飲まない生活は不適応なようですわ」と、エンペストリー嬢は少し悲し気に言った。
「私が変わりものなのですよ」ナイトはルイーゼの2週間の苦闘を自分と重ねて、少し微笑んだ。「あなたはあなたらしく生きれば良い。私もあなたも、無茶をしすぎだ」
「ルシルの叔父様の言った通りの方だわ」と、エンペストリー嬢は彼女の古い親戚とよく似た明るい茶色の瞳を潤ませて言う。「食事が変わってる以外は、本当にお優しい方」
「それはどうも」ナイトは短く礼を言った。
縁談が破談になったエンペストリー嬢が、目を潤ませながら馬車に乗って帰って行った後、ナイトは気分が重いのか軽いのかよく分からないと言う顔をしていた。
「今日から血を食べなくて良いのは喜ばしいが、私の知らないところで同じような苦難を味わっていた女性が居たのは遺憾だ」と、ナイトは呟いた。
「ルシルの叔父貴に、少し困ってもらおうか…。バトラー」と、ナイトは陰気な執事に呼びかけた。
カート・ルシルの家に、エンペストリー嬢との縁談が破談になった話と、大量の輸血パックが送られて来たのは、翌宵のほぼ同時刻であった。
「なんだこの輸血パックは…送り主はナイトか。ルイーゼを振っておきながら、なんのつもりだ」と、輸血パックを受け取ったカートは、一口飲んでみて、急いで洗面所に向かった。
口にした血を吐き出すと、「腐りかけているじゃないか!」と言って、あまりの不味さに涙目になった。
見れば、輸血パックの使用期限は5年前で切れている。その、5年前で使用期限の切れた輸血パックがぎっしり入った段ボールが、次々に運び込まれてくる。
すっかり家の玄関を埋め尽くした段ボールのひとつに、手紙がついていた。
ルシルがその手紙を剥して読むと、「どうぞ、我々の苦渋をご堪能下さい」と書かれていた。