ナイト達が書斎に着くと、何かに反応したように、エリーゼが目を開けた。
「まだ麻酔が切れる時間じゃない」と、ルーゼリアは言った。
「魔術の影響だ。エリーゼに意識はない」ナイトが言った。
麻酔薬の力に抵抗するように、エリーゼは手を震わせ、何か行動しようとしている。
「ここに、よっぽどまずい何かがあるらしいな」ルーゼリアは言った。「ナイト、メイドの腕の痣は消せるか?」
ナイトは、給仕用の服の袖のボタンをはずし、わずかに見えていた痣を観察した。
「何かのインクで描かれているようだ。複雑な合成物質ではないなら…」と言って、ナイトはエリーゼの腕の痣を、魔力を宿した指でぬぐった。
何かがはがれるように、痣が消えた。
手足の震えが治まり、また目を閉じてエリーゼはぐったりと横たわった。
書斎に籠城してから、朝が近づき、2日間眠っていないナイトは、急激な睡魔に襲われていた。
「だいぶ消耗しているようだな」と、緊張感を絶やさないルーゼリアは言う。「少し眠ってろ」
「そう言うわけにもいかない」
ナイトはカーテンの向こうが白み始めるのを気にしながら、エリーゼを床に寝かせて、書棚に近づいた。
「ここの連中は、私の言う事しか聞かないのでね」と言って、ナイトは書棚の隅々を見回した。
何かの書物が、目を引くように本棚の中でガタガタと震えていた。
ナイトがその本を引き出すと、表表紙の裏に、エリーゼの腕や、化け物の背中に描かれていたのと同じ模様があった。
その模様も、ナイトが魔力を宿した手で拭うと、さらりと消えた。
その途端、本のページがパラパラとめくられ始めた。
そして、「解約の儀」と書かれたページで、ぴたりと止まった。
「吸血鬼に服従する者を、その契約から解き放つ方法」
また、別の本が震えていた。それも取り出すと、やはりあの模様が描かれている。その模様も消すと、またあるページが示された。
「操作の魔術の手引き」
「分かりやすい読心術の心得」
「イーブルアイを退ける方法」
その情報は、どれもあることを連想させた。
「ルーゼリア」ナイトは本を見たまま呼びかけた。「ポルクスは、連れ去られてはいない」
「どう言う事だ?」横目でナイトを見て、ルーゼリアは聞いた。
「『操作』の魔術を使っているのは、ポルクスだ」と、ナイトは言う。「この屋敷の何処かで、ポルクスは私達を…いや、私を殺す機会を狙っている」
「書斎に乗り込まれたか…」少年は屋根裏部屋の魔法陣の中で、屋敷の見取り図を広げていた。「僕のこともばれちゃったかな~?」と、気楽に呟く。
金色の髪をくしゃくしゃとかき回し、少年は一枚のメモを取り出した。マジックで床に描いた魔法陣の中に、メモに記してあるものを入れた小瓶並べて行く。
「カラスアゲハの鱗粉、コオロギの爪、狼の片目、蒸留水、と。これだけ集めるのでも、結構かかったんだけどな」
少年は独り言を呟く。
「仕上げに、主の心臓から滴った血…か」少年は難しそうに眉を寄せ、「直接頼んでみようかな」と言った。
ルーゼリアは、腑に落ちないと言う顔で廊下に出た。解約の儀には、「主の心臓から滴った血」が必要らしい。心臓を裂かれれば、いくら吸血鬼でも相当なダメージを負う。
おまけにナイトは普段から消耗している状態だ。下手をすれば、心臓が再生する前に死亡することも考えられる。
だが、「ポルクスに会っても殺さずに、私のところに連れてきてくれ」とナイトに頼まれたのだ。
ポルクスの部屋は、屋根裏にあるそうだ。ルーゼリアは片手に銃を構え、3階へ上る階段、4階へ上る階段を慎重に進んで行った。
ナイトの話によると、屋根裏への階段は4階の物置の奥にあるらしい。
「大人しく待ってるとも思えんがな…」とルーゼリアが呟いた途端、背後から首筋に判のようなものを押しあてられた。
「その通りだよ。大人しく待ってるわけないじゃん」と、少年の声が聞こえた。「僕って結構アクティブなんだよね」
その言葉を聞きながら、ルーゼリアは自分の意思以外の何かが、自分の体をコントロールし始めるのが分かった。
首筋につけられたらしい、『操作』の魔術の模様を消そうとしたが、首筋に回そうとした手を少年につかみ取られた。
人間の幼い少年とは思えないほど強い力で、腕をねじりあげられ、ルーゼリアは壁に体を押し付けられた。
「お姉さん、意外と力強いねぇ」と、少年の声がする。「インクが乾くまで待っててね。乾いたら、ちゃんと楽に動けるようにしてあげるから」
ルーゼリアは、意思を振り絞って言葉を出した。「ナイトは…お前、を…」そこまで言って、舌のろれつも回らなくなるのが分かった。
「連れて来いって言ってたんでしょ? 馬鹿だねぇ。自分を殺そうとしている相手を、手の内に招き入れるなんて」と言って、人形のような少年はくすくすと笑った。
「インク、乾いてきたね」と少年は言った。「じゃぁ、銃を取って…先に行ってもらおうか」と少年が言うと、ルーゼリアの足が勝手に歩き始めた。
書斎に着くと、「さ、ドアを開けて」と少年が言った。ルーゼリアは抵抗したが、痙攣する手がドアのレバーを倒し、一気に扉を開けて、書斎にいたナイトに銃を向けた。
だが、見えない壁のようなものに阻まれ、ルーゼリアの手から銃器が弾かれた。
「ああ、結界があるんだったね」と少年は言った。「悪いけど、出てきて下さいませんか? ナイト様」
「ポルクス…。そんなに自由になりたかったのか?」と、ナイトは暗い声で聞いた。
「当たり前ですよ。ナイト様?」と、少年は言った。「あなたの代で絶えるんだと思ってたからこそ、我慢してきたのに。それより、心臓の血をいただけませんか?」
「そうか」と言って、ナイトは絨毯の上から立ち、廊下に出た。
操作されているルーゼリアが、震える手で、腰に備えていたベルトから、別の銃を取り出した。
「お前が育ててくれた命だ。くれてやる」ナイトは言って、銃を構えたルーゼリアの方を向いた。「心臓はここだ。外すなよ」と言って、左胸を指した。
「物分かりの良いご主人様で、大変助かります」とポルクスはニコニコしながら言い、ルーゼリアに「撃って」と言った。
ガタガタと震える銃口が、ナイトの左胸をよぎった時、引き金が引かれた。