1週間後の朝、エリーゼは身の周りの物を入れた鞄を持って、馬車に乗って駅へ向かった。
別れ際に、「お守りだよ」と言って、ラーシェが水晶をあしらったイヤリングをくれた。
「さっそく付けてみて」とラーシェが言うので、玄関の壁に備えられた姿見を見ながら、イヤリングをつけて見せると、ラーシェはヒューと口笛を吹いて、「似合うじゃん」と言った。
エリーゼは、不安なような表情で馬車の外を見た。見慣れたはずの街が、遠くなったような気がした。
夕方を過ぎた頃、正装姿で寝室から出て来たナイトは、廊下で出会ったジャンに声をかけた。
「ミスター・ヘリオス。夕飯はいかがかな? 血の腸詰がお嫌いでなければ」と、ナイトは言った。
「ありがとうございます」と、ジャンは恐縮しながら答えた。「血の腸詰を食べるのは初めてですが」
「お気に召していただければ良いが」と言って、ナイトは先に立って食堂へ向かった。
キッチンのほうから、水蒸気のにおいがしてくる。ラーシェが調理を始めているらしい。
ナイトは、炎の文字でラーシェに合図を送った。「カットフルーツと血の腸詰を2人分」
「了解」と、ラーシェの声がナイトにだけ聞こえた。
ナイトとジャンが食卓について間もなく、執事が2人分の食事を乗せたトレーを持ってきた。
「物足りなかったら、遠慮なくバトラーに申し付けて下さい」と、ナイト。
「お食事をご一緒に出来るだけで光栄です」
ジャンはそう言って、自分の前に3本の腸詰の皿、ナイトのほうに1本の腸詰の皿が渡されたことを不思議そうに見ていた。
「失礼ですが、それしか召し上がらなくてもよろしいのですか?」
「私には、これで十分なのでね」ナイトは含み笑いをして、「さぁ、私のことは気にせず」と言うと、湯気を上げている腸詰をナイフとフォークで切り始めた。
食後のワインを飲みながら、ナイトはジャンに仕事の話を聞いていた。
「そうすると、実際に一人で警護の仕事をするのは、今回が初めてで?」
「そうです。チームで任務に就いたことはありますが、単独での仕事は初めてです」と、答えてジャンはコーヒーを口に運んだ。
「では、私のほうから個人的に頼んだ護衛の者達とのチームプレーは可能かな?」ナイトは微笑みながら言う。
「それは心強い。もちろんです」とジャンは答えた。
「もうそろそろ、その者達も着く頃だ。応接室に移動しましょう」と言って、ナイトはグラスの底に残ったワインを飲み干すと、席を立った。
ナイトが応接室の奥の席に座ったのを見届けてから、ジャンは来客にもナイトの移動にも邪魔にならない場所に佇み、後ろ手を組んで胸を張った。
動きやすいようにスーツの上着を脱いでネクタイを外しているジャンは、ナイトが透視したとおり、胸に回したベルトに1丁の拳銃を、そして腰のベルトの左右にも2丁の拳銃を備えている。
これはこれは、人間にしては重装備だな、とナイトは心の中で思った。
間もなく、玄関のチャイムが鳴った。執事が客人に応対し、二人の人物が応接室に入ってきた。
一人は、帽子を被った痩身の男。応接室に入るなり、何も言わず背負っていたバックパックからパーツを取り出し、巨大なボーガンを組み上げ始めた。
もう一人は、古びた青緑色のローブを着た、見た目は15歳くらいの少女。灰色の目に、赤い光を灯している。「こんばんは。ウィンダーグ様。ご機嫌いかがかしら?」
少女の、見た目とは反したしわがれ声を聞いて、ジャンはぎょっとした。
「あら、嫌だ。変化が解けかけてるわ」と、少女は老婆のような声で言った。「ウィンダーグ様、この部屋、誰かの結界でもおありになるの?」
「ああ。すまないが、この部屋にいる間は我慢してくれ。エミリー」ナイトは老婆のような声の少女に声をかけた。
「じゃぁ、さっさと話を片づけましょ」と言って、少女は客用の椅子に座り、商談を始めた。「護衛の期間はどのくらい?」
「丸1年は考えておいてくれ」と、ナイトはしらっと言った。
「あらあら。たった1年で良いの? それじゃ、そこの人間の男の子は、お飾りって事かしら?」と、エミリーは横目でジャンを見る。
「この度は、人間が殺されているのでね。彼等も、他人事じゃない」
ナイトはジャンの気持ちが萎えないように、さりげなくフォローした。
「彼はジャン・ヘリオス。この家での警護の任期は約1ヶ月だ」
「居ても居なくても同じようなものね」と言って、エミリーは鼻で笑った。「成功報酬は後でゆっくり相談しましょ。まずは家の中を見回らなくちゃ」
そう言って、席を立ったエミリーは、ジャンと話す気もないようで、すぐに廊下に姿を消した。
ボーガンを組み立て上げた男は、矢をつがえる前にジャンに右手を差し出し、「エンダー・ホークだ」と自己紹介した。「連れがせっかちですまんな。ひとまずはよろしく」
「よろしく。ミスター・ホーク」と応えて、ジャンは握手をかわした。
「エンダーで構わん」と言って、痩身の男はジャンに背を向けると、片手に持ったボーガンに矢をつがえ、廊下に出て行った。
窓から月明かりが見えた。エミリーは、薄暗い廊下の突き当りで、壁に何やら模様と文字を描きこんでいた。
「エミリー。『シェルター』を作るまで、どのくらいかかる?」と、エンダーが声をかける。
「20分あれば十分」とエミリーは少女の声で答えた。「まったく。リフォームするならあらかじめ伝えておいてほしいわ」
「当主が変われば、やり方も変わってくる」エンダーがそう言うと、「そんなものかしらね」とエミリーは応え、「じゃ、次のポイントに行くわ」と言うなり、その場から彼女の姿はかき消えた。
驚く風でもなく、エンダーは誰もいなくなった廊下の突き当りを離れ、4階まである広い屋敷を周回し始めた。