Ash eaterⅢ 4

エミリーとラーシェが力を送る結界の中で、ナイトはジャンの喉笛に刻まれた操作術の紋章に、魔力を宿した右手をあてた。蒸発するような音が鳴り、ナイトが手を離すと紋章は消滅していた。

そして次に、ジャンの右手と左手に、改めて変化を封じる印を描いた。

「私のほうから操作術を施すことはない。能力のコントロールは自力で覚えてくれ」

ナイトがジャンにそう言って、エミリーとラーシェを見て頷いた。2人は同時に結界を解いた。

「今までこんなことはなかったのに…。僕は何故突然…」すっかり意識の覚めたジャンは、困惑したように、喉笛に触れた。

「あんたの上司が、あんたを鉄砲玉にするために、無理矢理闇の血を叩き起こしたんだよ」ラーシェが平然と言う。「ウェアウルフは自我が無くなりやすいからね。飼いならすにはもってこいだ」

ラーシェは、ポケットに入れていた木の葉を取り出して、ふっと息を吹きかけた。

その途端、その木の葉からオークランドの声が聞こえた。「クルー。飼い犬は憑りつかれた。プラン2に変更だ」

「クルー?!」と、ジャンが驚いたように言う。

「聞き覚えのある暗号かしらね?」エミリーが自分の漆黒の髪をなでながら言う。「意味は?」

「極秘捜査にあたるときに作るチームの構成員の呼び名です」ジャンはその場にいる全員に聞こえるように答えた。「組織を組んで、ウィンダーグ家を滅ぼそうとしているとしか…」

「と、しか思えないな」ジャンが言いよどんだ語尾を、エンダーがつなげた。

「だが、オークランドが個人的にウィンダーグ家を滅ぼそうとしているとも考えにくい」ナイトは言う。「この家を滅ぼすなら、チャンスはいくらでもあったはずだ」

「黒幕が居るのかね」と、ラーシェは木の葉をポケットに戻しながら呟く。「この家を守るなら、あたしも協力するよ。せっかく良い給料がもらえる仕事に就けたんだからね」

「じゃぁ、こっちの味方は、このお嬢ちゃんと、私とエンダー、それからこの坊やって事かしら?」エミリーが一人一人を指さしながら、確認した。

「ここじゃ話づらい」ナイトは言った。それもそうだ。5人は、まだ3階の廊下に居たのだ。

「エミリー、簡易結界をはっていてくれるのはありがたいが、もっと楽に話せる場所に移動しよう」

ナイトが提案すると、エミリーは眉間にしわを寄せて「あの絨毯の結界がはってある場所? あたしの美貌が崩れちゃうんだけど?」と言った。

「メイクをしていない顔はなるべく見ないよ」ナイトは冗談めかせて答え、指示を出した。「エミリーはフードを被っていてくれ。ラーシェ、書斎まで移動だ」

「さっそく、専門以外の仕事が来たね」ラーシェは言って、エミリーの張った簡易結界ごと5人を、書斎に「転移」した。

その途端、バリバリと音を立てて、簡易結界が砕かれ、エミリーは慌ててローブのフードを目深に被った。

「嫌になっちゃう。今時、こんな重厚な無効結界を作れちゃう魔女が居るなんて」エミリーがしわがれた声で言った。「それで、こっちはどんなプランを立てる?」


話し合いが終わった後、ラーシェは屋根裏部屋の寝室に戻り、サイドテーブルに置いた鏡の中を覗き込んだ。

「今日も何事も無かったか」と、ラーシェは呟いた。そこには、故郷の自宅の寝室で眠っているエリーゼの寝顔が浮かんでいる。

東の空が白み始めた。ラーシェは鏡の像を消すと、小間使い用の服に着替え、朝の郵便を受け取りに階下へ降りて行った。


その頃、書斎からナイトがディーノドリン署のオークランドに電話をかけていた。

「おはようございます。ミスター・オークランド?」ナイトは気軽い口調で言った。

「これはこれは。ウィンダーグ様」平静を取り繕ってオークランドは答えた。「良い朝ですな。今日はまだお眠りには成らないので?」

「ひとつ提案がありましてね」ナイトは言った。「あなたの後任のジャン・ヘリオス氏だが、とても腕の良い護衛であると言う事が分かりました。そこで、当家付きの専門の護衛として雇いたい」

「ジャンが? どう言う経緯かは分かりかねますが、まずは一度こちらに引き戻していただかないと…」

「ええ。もちろん。ですが、当家との契約は既に完了済みですので、今日のうちに再びこちらへ呼び戻します。では、ご機嫌よろしく」

そう言ってナイトは電話を切ってから、スーツ姿に着替えなおしたジャンに目で合図を送った。

ジャンはしっかりと頷き、足早に屋敷を後にして、馬車道のほうへ向かった。


「本当に送り返しても大丈夫なの?」書斎に残ったエミリーが聞いてきた。「再インプリンティングされてくるかもよ?」

「私も、お前ほどの魔力はないが、そこそこ小細工は出来るほうでね」ナイトは言った。「それに、この屋敷の情報は、署内の特定のコンピュータからしか引き出せないらしい」

「そこから情報を引き出してくるの?」と、エミリー。

「引き出すまでもない」ナイトは状況を楽しむように言った。「魔術を専門とする者達を敵に回したとき、どうなるかをオークランドに知ってもらうだけさ」

ノックの音が聞こえた。「入れ」と、ナイトは答える。新聞と朝の郵便物の山を持ったラーシェが、「今日は異常なし」と言って紙の束を書斎の机に置いた。


ディーノドリン署に戻ったジャンは、「おはよう」と、受付嬢に気軽に声をかけた。

受付嬢の一人が、小型の発信機でオークランドに信号を送った。

「飼い犬。帰還」オークランドは受信機に送られて来た信号を受け取り、にやりと笑った。

そして通信機で、「クルー。美女は飼い犬を手放した。プラン2継続」と送った。

オークランドが、自分のところに来るまでのジャンの姿を監視カメラで観ようとしたが、おかしな事に何処にもジャンは映っていない。

「ミズ・ケリー。飼い犬は確かに来たのか?」と通信を送ると、パリパリと通信機が帯電し始め、ピーッと言う音を立てて電波が消失した。

「ただ今着きました。オークランド部長」と言うジャンの明るい声を聞いて、膝元から顔を上げると、そこにはにこやかな表情をしたジャンが立っていた。

「たかが一ヶ月とは言え、単独任務は緊張しましたよ」と言って、ジャンは記入済みの辞表を提出した。「おかげで、ウィンダーグ様に気に入っていただけたようなものですが」

「そうか…。それは、そうか、よかったな」と、オークランドは戸惑ったような声を出したが、咳ばらいをし、辞表を見て顔色を変えた。

一瞬、唯のインクで書いてあるだけの文字が、ミミズのようにのたくったように見えたのだ。

それは見間違いでは無かった。インクで書かれた文字が、紙の表面から離れ、宙に浮いて別のスペルを刻みながら、手近なコンピュータの中に吸い込まれて行く。

オークランドは、一瞬何かの魔術を疑った、だが、彼の知識の中には、こんな魔術は存在しなかった。

「オークランド」と言う文字が、署内の全てのコンピュータの画面に映し出された。監視カメラの映像さえ、その文字に埋め尽くされ、監視員達は我が目を疑った。

「私は」と言う文字が、次に映し出された。「全てを知っている」そう文字をつづったのを最後に、署内のコンピュータ全てがシャットダウンした。

署員達は驚き、どうにかコンピュータを復旧させようとした。

ある女性署員が、自分の手元のコンピュータを慌てて復旧させようとしていると、不意に全ての機器の画面がついた。「全消去」と言う文字が浮かび上がり、勝手にエンターキーが押された。

「ここだけじゃありませんよ」ジャンが警告するように言った。「署内、全てです。もちろんあの機器も。それでは」と言って去ろうとしたジャンの腕を、オークランドがつかもうとした。

ジャンのスーツの腕に触れようとしたオークランドの手に、高熱と激しい痛みが走る。オークランドは驚いて手を引っ込めた。

炎の塊に自ら手を突っ込んだかのように、その手は焼けて爛れ、火傷が激痛を伴いながら、文字のように皮膚を這い回った。

オークランドは、悲鳴を上げようとした。だが、声が出ない。腕から肩、肩から首、首から胸へと、火傷が広がっていく。その火傷はみな、「私は全てを知っている」と言う文字を模っていた。

全身を焼かれ、オークランドは気絶した。そこに、オークランドを問い詰めようと署員達が部署へ駆けこんできた。

誰にも気づかれないかのように、ジャンは署内から去ることが出来た。

監視カメラのどれ一つにも、誰の記憶にも残ることなく。


昼過ぎにウィンダーグ家へ戻って来たジャンを見て、「上手く、事は運んだようだな」とナイトは言った。

「中核コンピュータに決定的なダメージを与えられました」ジャンは報告した。「例の機器はスタンドアロンにしてありましたが、これには『カウンター』は届いているのですか? それと、電話の記録は?」

「問題ないよ。コンピューターウィルスとは違うのでね。そこにあるだけで、魔力は伝播する」ナイトはお茶を一口飲み、「ダージリンは口に合わんな」と呟いた。

そして、「電子機器だけじゃない。人間の記憶からも、紙の書類からも、お前のことは消えている。『飼い犬』、ジャン・ヘリオスはあの署には存在しなかったことになる」と続けた。

その言葉を聞いて、ジャンはこの主を恐れるより、頼もしささえ感じた。

「これからは、きっとお力になります」と言って、ジャンは右手を差し出した。

「ありがとう。ついでに、炎を返してもらうよ」と言って、ナイトは握り返した右手を伝って、分けていた魔力を回収した。