Ash EaterⅢ 5

ジャンは昼間の護衛、エミリーとエンダーは夜間の護衛、ラーシェは全般的な皆のフォローを頼まれ、ウィンダーグ家は表面上は差しさわりない日常を取り戻した。

小間使いの服装で、庭木に水を撒きながら、ラーシェは一羽のアオスジアゲハが飛んで行くのを見た。

それが使い魔であることは、魔力を帯びた鱗粉の香りから、たちまち見抜けた。だが、庭の結界をすり抜けてきたとなると、「悪意」を持ったものではないらしい。

「それ以上は進入できないよ」ラーシェは一応声をかけた。「ご当主様に用件なら、あたしが伝言するけど?」

すると、蝶はラーシェの肩に止まり、小さな声で囁いた。「魔鏡が見つかった。けど、取り返すことは出来ない。次の者の手に渡った」

たどたどしく言伝を伝え、最後に「それはウィンダーグの…」と言いかけ、何かの気配に気に付いて言葉を切った。

ラーシェが「そのまま。あたしが移動する」と言って、片手のひとさし指をくるりと一回転させ、自分の周りに簡易的な結界を作った。

後は、なんの変わった様子も見せず、水撒きが終わったふりをしてホースを手繰りながら庭を横切り、水道を止めてホースの束を水道にかけ、裏木戸から屋敷の中に入った。

その様子を、外の電信柱に止まったカラスが、じっと見ていた。


屋敷の中に戻ったラーシェは、「ウィンダーグの、なんだって?」と聞いたが、その時、蝶は既に普通のアオスジアゲハに戻っていた。

ラーシェの肩からはたはたと飛び立ち、アオスジアゲハは、水のたまったシンクの洗いかごでのどを潤している。

「雑な魔術だな。送り主は誰だろ」と思い、ラーシェは蝶の羽に手をかざし、手を横にスライドさせた。

「ティナ・リンカー」と言う文字が浮かび上がって、消えた。


昼間の見回りをしていたジャンは、見取り図で薬品庫になっていた部屋の前に来た。以前も何度か見回ったが、薬品瓶に入れられた、よく分からない品々が棚に並べられているだけの部屋だ。

だが、誰かが身を隠すと成ったら、めぼしい部屋だ。

ジャンは十分な注意をしながら、薬品庫に入った。

薄暗く、少し埃くさい。

「何してんの?」あっけらかんとした声が入り口のほうからした。クリムゾンの髪の魔法使いの少女…ラーシェがきょとんとした顔でジャンを見ている。

「見回りだよ」ジャンはため息をついて、入口から続いている一本道をラーシェに譲った。「ラーシェ…だっけ? 君は、こんな所に何の用だい?」

「もちろん、材料を取りに」なんでもない事のようにラーシェは答えた。「言っとくけど、作るのは列記とした医薬品だからね」

「そうだろうね」ジャンは答えて、ホールドアップをして見せた。「血の腸詰やサラダに、毒薬が入ってるとは思ってないよ」

ラーシェが、様々な木の実や草の葉や乾燥させた何等かの粉を、適量づつ大瓶に移すのを物珍しげに見ていたら、「見回りなら、薬作りじゃなく部屋を見回したほうが良い」と言われた。

それもそうだと思い、部屋の奥まで一巡りしてから、ジャンは黙って出て行ったラーシェの後に続いて、薬品庫を後にした。


新しい31個のカプセル剤を作ってから、ラーシェはそれを保存瓶に入れ、台所の決まった場所に置いておいた。こうしておくと、夜にはナイトが薬の代金と交換しておいてくれる。

それからラーシェは休憩を取りに、昼下がりの屋根裏部屋に行った。エミリーとエンダーが、ジャンと交代した後も、ラーシェの仕事は続く。

唯一気楽な点と言えば、純粋な吸血鬼はナイトしかいないので、エリーゼが残して行った人間用の食事を護衛達に出しても文句を言われないと言う所か。

「あたしも、闇の者くらいの体力がほしいよ」愚痴を呟き、ラーシェはベッド脇の鏡をのぞいた。

幼い弟達に本を読み聞かせているエリーゼが映っている。「今日も無事、と」と寝間着に着替えたラーシェは言って、鏡の像を消してベッドにもぐりこんだ。


屋敷の大時計が鳴った。19時。交代の時間だ。ジャンの両手に施されている、変化を封じる印が、廊下の闇の中でうすぼんやりと光っている。

「もうそんな時間か」2階を見回っていたジャンは、交代のために1階のホールへ向かった。

階段の手すりに肘をついたエミリーが、遅いと言わんばかりに手すりを爪でつついている。エンダーは何か知らない丸薬を口に放り込む所だった。

「申し訳ない」とジャンが声をかけると、エミリーが「随分仕事熱心ね」と皮肉った。「でも、時間は守ってちょうだいね」

「まだ、時計無しだと時間が把握しきなれなくて」と言って、ジャンはすっかり胸ポケットが定位置になってしまっている腕時計を取り出した。

「なぁに? 変化しかけた時に壊れたの?」エミリーはそう言って、ジャンの見せた腕時計を指先ではじいた。

時計の針がギリギリと回り、19時を指して、正常に動き始めた。

「直ったでしょ? 次は遅れないでね」と言って、エミリーはエンダーに合図を送り、2人は煙をかき消すように夫々の持ち場へ消えた。

ジャンは、一瞬遅れて「素晴らしい」と呟いた。


4時間だけ眠ったラーシェは、大時計の音を察して目を覚まし、寝ぼけながら、この家に面接に来た時来ていた魔術着に着替えて、台所へ向かった。

今日はナイトの食事の日ではない。だが、薬瓶を置いておいた場所にちゃんと代金が置かれていた。

ラーシェは代金の金貨をポケットに入れ、夕飯がわりに分厚く切ったハムとチーズを一切れずつ齧ると、小間使い用の休憩室に備えられた洗面台で歯を磨いてから、書斎へ向かった。

ノックをすると、ナイトの「入れ」と言う声が聞こえた。

昼間のアオスジアゲハの伝言を、ナイトに伝えると、ナイトはその内容を面白そうに繰り返した。

「魔鏡が次の者の手に渡った。それはウィンダーグの…か。ティナの情報にしては、確信を得ている」

「だいぶ急ごしらえだったみたいで、署名も砕けかけてザラザラだった」とラーシェが言うと、「あいつにしては上出来なほうさ」とナイトは軽く返した。

「親類の中に、誰か裏切り者でもいるの?」ラーシェはなんでもない風に聞く。「それならそれでターゲットはしぼれるけど」

「安直に安心はできない」ナイトは片手の指をラーシェに向け、本人の意志とは無関係に、ピッと左手を上げさせた。

「反魔術が施されている人間でも、このくらいは動かせる。普通の人間なら、簡単に鉄砲玉に出来る」

ナイトがそう言って術を解くと、「さすが、旧家のご当主様だ」とラーシェはむっつりした顔で、引っ張り上げられた左手を柔軟するように振った。