Ash eaterⅣ 2

ロッククライミングの経験はあったが、直立した壁を登れるものかとジャンは一瞬考え込んでいた。だが、爪一枚引っかかる場所があれば、簡単に昇れることが分かった。

カート・ルシルの書斎は3階の窓から侵入できる。エミリーがくれた護符には、完全に気配を消し、なおかつ結界などの魔力を無効化できてしまえる力があるそうだ。

「その護符を使う以上、魔力を発するものは逆に気づかれる恐れがある」とナイトに忠告されていたため、ジャンは人間の使う硝子切りで窓ガラスに穴をあけ、鍵を開けて書斎に侵入した。

ジャンは、初めて意図的にイーブルアイを発動させた。焦点を合わせるのに少し手間取ったが、机の引き出しに「目標物」があるのは分かった。

そして、その引き出しが、魔力で封印されていることも。

エミリーが呪文を刻んだ護符を、ポケットから取り出し、ジャンは一縷の望みをかけて、引き出しを封じている印に護符をあてた。

パチッと言う音とともに、封印が壊れた。

ジャンは慎重に机を開き、魔力を発している、布に包まれた分厚い円形のガラスの塊を手に取った。

これが「魔鏡」か。恐らく間違いない。

ナイト達がルシルの注意をそらしているうちに、ジャンは「魔鏡」を腰の小さな鞄に入れ、3階の窓から静かに壁を伝い、地面に着地すると、樹木で入り組んだルシル家の庭を密かに脱出した。


エミリーが、カラスを、捕まえておいた場所に「転移」させた。ナイトは合図に気づいた。ジャンが上手くミッションをクリアしたらしい。

「私の妻となるものを殺そうとお考えだったようですが、それには賛同いたしかねます」ナイトはそう言って席を立った。「今日は、私の決意が分かってもらえれば良い」

「いや、帰さんぞ」とルシルは言った。「そこまで知っているなら、もう何も隠す必要はない。お前を殺すか、妻を殺すか、子どもを殺すか、この3択だ。常に狙われていると思え」

怒りの形相でそう言い放つルシルは、応接室のテーブルの間合いを瞬間的に縮め、ナイトの首をつかもうとした。

ナイトは、ポケットの中で右手に握っていた小さなナイフを、ルシルの喉笛につきたてた。

「ふん。小細工を…」と言ったルシルは、喉の傷が治らないことに気づいた。それどころか、傷口の周りから、体が灰になり、崩れていく。

「なんだそれは」と言おうとしたらしい。口だけをパクパクさせ、喉を潰されたルシルは気道をヒューヒュー言わせながら床に倒れた。

ナイトの足首をつかもうとしたが、ルシルの喉笛からナイフを抜き取ったナイトが、ルシルの手にもナイフを突き立てた。

やはり、傷口から次第に灰になり、ルシルの体が崩れていく。

「味方が死んでいく間に、どなたか助けておくべきでしたね。叔父様」と言って、ナイトはルシルの左胸にナイフを突き刺した。


完全に灰になったルシルの遺骸と服を、エミリーがルシルの寝室へ「転移」させた。

そしてルシルそっくりの幻影を創り出し、使用人と共にナイトとエミリーを見送らせた。

「私は今日はもう休むよ」とルシルの幻影が使用人に言った。

使用人は「お食事は要らないのですか?」と聞いたが、ルシルの幻影は、「この頃、少し太って来てね」と言って、寝室に入り、エミリーが遠隔操作で寝室に鍵をかけると、幻影は消滅した。

馬車の中で幻影を操っていたエミリーは、全部が終わると「やーねぇ。ほうれい線濃くなっちゃう」と呟いて、顔の皮膚をのばした。

ナイトはそれを聞いて、おかしそうにククッと笑った。


先にウィンダーグ家へ帰ってきたのはジャンだった。徒歩で帰って来たとは思えない速さだ。

「ラーシェ。『魔鏡』は、これで間違いないかい?」と、ジャンは魔力を放っている円形のガラスの塊を取り出し、最終確認をした。

「それだよ。さすがだね」と言うと、青白い顔をしたラーシェは、気を失ってしまった。

エンダーが、ラーシェを支えて玄関ホールのソファに横たわらせた。

ラーシェの魔力が途切れ、護符の影響もあって、濁っていた像がくっきりと浮かび上がってきた。ジャンは、見たことのない立派な家で見たことのない若い美しい女性が眠っているのを見た。

女性が寝返りを打ち、ネグリジェの胸元が見えそうになったのに気付いて、ジャンは慌てて鏡を布に包んだ。

丁度、ナイト達が帰ってくるところだった。

「なんとか最終列車に間に合った」外套を脱ぎながら、ナイトが言った。「そう言えば、ここのところ、執事を動かして無かったな。地下室から起こしておくか」

そう言って自分でコート掛けに外套をかけると、ナイトはジャンとエンダーから状況を聞いた。

「『目標物』はこれです」と言って、ジャンは布に包んだ「魔鏡」をナイトに渡した。

「間違いなさそうだな。よくやった」ナイトはジャンの労をねぎらった。「エミリー、ラーシェを少し介抱してくれる余裕はあるか?」

すると、エミリーは困ったように答えた。「本人が気絶しちゃってたら、なんにもしてあげられないわ。私、ヒーリングの力は弱いほうなの。自力で回復してもらうしかないわね」

「そうか。では、私のほうでなんとかしよう」ナイトは言った。

「ジャン。ラーシェを屋根裏部屋まで運んでやってくれ。それでは…エミリー、エンダー、謝礼の相談をしようか」

「あらあら。せっかくのお祭り騒ぎが、ずいぶん静かに終わっちゃったわね」と言って、エミリーは胸の前で手を組んだ。「さぁて、吹っかけるわよー」

「300万ドルくらいまでにしておいてくれよ」と、冗談めかせてナイトが答えた。