田舎から呼び戻されたエリーゼは、3年間の間にずいぶん美しく成長していた。
最初は眼鏡をしていたので分からなかったが、ある日、ジャンは使用人用の洗面所で顔を洗っていたエリーゼを見て、あの時「魔鏡」に映っていた女性だ、と気づいた。
だが、ジャンは「魔鏡」がなんのために使われるのかまでは教えてもらっていなかった。
ナイトがエレーナとの約束通り、占いの結果を黙っていたからだ。
「あの…何か…?」と顔を拭いたエリーゼに聞かれ、ジャンは「いや、なんでもない。失礼」と言って、洗面所を後にした。
ナイトが、ここの所、落ち着きがない事にラーシェは気づいていた。
意味もなく夕方の庭に出てきて、庭木を切っているラーシェの仕事に、「ひこばえを切っておいてくれ」等と注文を付けたかと思うと、さっさと居なくなる。
書斎に住んでいるもの達と、しばらくチェスをしていたかと思っても、すぐに飽きてボードをしまってしまう。
朝の新聞を書斎に持って行ったついでに、ラーシェは言った。
「エリーゼを避けてるね?」
核心を突かれてナイトは苦笑いを口元に浮かべた。
「言いたいことがあるなら、すぐに言えば良いのに。何様子をうかがっての? そんなんじゃ、いつか嫌われちゃうよ」
「魔鏡」のエネルギーを辿ったことがあるラーシェは、ナイトがひた隠しにしようとしている事実を知っていた。
だが、占いと言う物がどんなものであるかを知っているので、あえてその事には触れなかったのだ。
ナイトは、両手を組み合わせ、書斎の机に肘をついて、考え込み始めた。
「切り出す機会がなくてね…」と、ナイトは言った。「なんと言えば良いのやら…」
「ご当主様。オシャレなカフェやレストランに行けなくても、機会なら普段からいっぱいあるだろ? 同じ屋敷の中に居るんだし」
そう言われて、ナイトは顔を紅潮させた。
ラーシェは続ける。「そう言う状態って、自分のことになると、冷静ではいられないらしいけど、エリーゼだっていつまでも23歳じゃないんだから、言うならさっさと言えば?」
「了解した」とナイトは答えた。「1週間時間をくれ」
「だーかーらー!」思わずラーシェは声を大きくした。「そうやってずるずる引き延ばすと、チャンス無くなっちゃうよ? 本人が、他の人を好きになることだってあるんだからね!」
「それは困る」と、ナイト。完璧に、頭が回っていない。
「あーもー。ご当主様が言う気ないんだったら、あたしが言っちゃうよ? プロポーズまで小間使いに言わせるつもり?」
「いや、もう…準備は万端なんだ。ただ、なんと言えばいいのか…」
「指輪まで用意してあるんでしょ? それなら、簡単じゃん。もう、エリーゼ呼んでくるから、スパッとけじめつけなよ?」と言って、ラーシェは書斎を出ると、台所のほうに向かった。
台所では、エリーゼがその日のナイトの食事を作っていた。血の腸詰を茹でて、フルーツを切るだけだが。
「エリーゼ。ご当主様が、お茶飲みたいって。書斎に居るよ」と、ラーシェは告げた。
「分かったわ。ラーシェ、ちょっとお鍋が噴きこぼれないか見ててね」と言って、コンロをラーシェに任せると、エリーゼは手早くお茶の準備をして、書斎へ持って行った。
書斎では、ナイトが顔を真っ赤にして待っていた。
ノックがして、「ナイト様。お茶をお持ちしました」と言うエリーゼの声が聞こえる。ナイトは咳払いをしてから、「入れ」と答えた。
ウィンダーグ家に雇われた当時、16歳のガリガリに痩せた少女だったエリーゼは、健康的に肉付きも良くなり、観る者を感心させる美女に変貌していた。
お茶のトレーを机に置き、「そろそろお食事が出来上がりますから、食堂にいらっしゃって下さいね」とエリーゼは言って、書斎を出ようとした。
「待ってくれ、エリーゼ」とナイトは呼び止めた。「渡したいものがある」そう言って、ナイトは机の中から、ケースに入った婚約指輪を取り出した。
ある晴れた宵に、特注の白いタキシードに着替えたナイトは、緊張した様子でふーっとため息をついた。
きっと、エリーゼのほうもドレスに着替え、緊張して待っていることだろう。
ナイトに友好的な親類達が、教会に集まり、ナイトと共に花嫁の登場を待っていた。
父親代わりに、エリーゼの叔父が、エリーゼを連れて、バージンロードを歩いてくる。
パンパネラの俺が神に誓うのか、とナイトは心の中で少し自嘲したが、エリーゼは人間だ。きっと、それなりに神のご加護もあるだろう。
目を伏せて歩いてきたエリーゼが、ナイトと目を合わせて微笑んだ。
結婚後も、エリーゼはメイドの仕事を続けたがったが、ナイトは既に新しいメイドと小間使いを雇いなおしていた。
「私が奥様なんて呼ばれるなんて」と、エリーゼは度々呟いた。「人生って何が起こるか分からないわ」
音楽の流れているカフェで、エリーゼの話し相手になっていたラーシェは、「これからも、何が起こるか分からないよ?」と返した。
「ちょっと、ラーシェったら。脅かさないで」とエリーゼが言うと、ラーシェは口の前で人差し指を立て、「しー。静かに。今のあたしの名前は、シエラ」と言った。
「ごめんなさい。まだ、慣れて無くって」エリーゼは申し訳なさそうに言って、誰も聞いていないことを確認した。「シエラは、お仕事のほう上手く行ってるの?」
「繁盛してるよ。薬師としてはひっきりなしだ。お得意様もいるしね」
ラーシェはそう言って、薬瓶の中に入っている、31粒のカプセル剤をエリーゼに渡した。
エリーゼが、預かってきた代金を入れた封筒を渡すと、ラーシェことシエラは、「毎度あり」と言って封筒を受け取り、子供の頃と変わらぬ笑顔でニカッと笑った。