Ash Eater 8

ナイトは、雲を纏いながら白み始めた空を飛んでいた。そして、市に入る手前の橋で霧に紛れて羽を閉じ、石畳に着地した。

深い霧の中から、ちょうど手ごろな馬車が来た。片手をあげて止めると、「パルムロン街。ウィンダーグ家前まで」と告げて乗り込んだ。

朝焼けが照らす頃、屋敷に帰り着き、何事も無かったことを何かに祈りながらベルを鳴らすと、主を見止めて、ドアが勝手に開いた。

「お帰り。親友」誰より先にポールが迎えてくれた。「少々、謝らなければならないことがある」

「大叔父様が死んだか?」と何気なく聞くと、屋敷の客間から、「ここから出せー!!」と言うカルサスの絶叫が聞こえてきた。

「生きてるらしいな」ナイトは執事にコートを渡しながら言った。

「実は、応接室の絨毯に、少々切れ込みを入れてしまったんだ」ポールは言った。「床にもナイフの痕が残ったが、これは執事には直せる範囲だろうか?」

実際にその絨毯と床の傷跡を見せてもらい、ナイトは「床はまだ良いな。板一枚張り換えれば十分だ。絨毯は丸ごと取り換えるしかないが、丁度腕の良い布屋を見つけたところだ」と言った。

そこに、またカルサスの絶叫が聞こえてきたので、ナイトは「大叔父様は、何を吠えているんだ?」とポールに聞いた。

「直接、ポルクス達に危害を加えたわけではないのだが、使用人や仕来たりに対する価値観の相違からもめごとになり、少々手荒いことをしてしまった」

「何処で?」と、ナイトは聞いた。「屋敷に大穴の開いてる場所なんてないだろうな」

「安心してくれ。百年前の、戦火が治まったばかりの荒れ地に移動した。この床の傷は、その時の名残だ」と言うポールの言葉を聞きながら、ナイトは経緯を了解した。

「気の利くことだ。親友よ」ナイトが答えると、またカルサスの絶叫が聞こえてきた。「ちなみに、大叔父様は何故閉じ込められてるんだ?」

「部屋で大人しくしていてくれと言ったのだが、聞かないので、結界の中に居てもらうことにしたんだ。ドアや壁に触なければ何事もなく過ごせるはずだが、触れると落雷並みの電流が走る」

「血の気が余っていたらしいし、丁度良いダイエットだろう」とナイトは言ったが、その間にも何度も絶叫が聞こえてくる。

「電流がクセになってるんじゃないだろうな? あの声を封印する術は無いのか?」

ナイトが書斎に移動しながら提案すると、

「あることにはある。だが、私は少し不得意でね。一度黙らせると、三年は喋れなくなる」とポールは答えた。

「構わん。必要な情報はもうないし、自慢話を三年聞かずに済むなら、良い耳休めだ」

「分かった。ついでだが、予防措置もしておいたから、これからあの大叔父様からの、使用人へのちょっかいも無くなるよ」

「よくやってくれた。薔薇の花をもう一部屋分送ることにする」とナイトは言ったが、「さすがにそれは食べきれないな」と言ってポールは笑った。


数日後、ポール・ロドスキー事務所の屋根の上には、立派な空中庭園が造られ、水耕栽培の薔薇の花が植えられた。

沈黙の祈祷をかけられたカルサスは、結界の外に出てから勝手にシャワーを浴び、勝手にナイトのバスローブを着て、バスローブ姿のまましばらく屋敷をうろうろしていた。

だが、リッドの現れる気配は全くなかった。

腹も減って来たらしく、なんだかイライラしている。そんなカルサスがそーっとエリーゼに忍び寄って首筋に噛みつこうとした途端、右手に六芒星の光が走り、カルサスの動きが止まった。

ナイトのシャツにアイロンをかけていたエリーゼは、背後にカルサスが居るのに気付いて「キャッ」と声を上げて、その場から跳びのいた。

その途端、カルサスの全身を焼くように電流が走った。

声が出れば悲鳴を上げているだろうが、カルサスは無言のままのたうち回り、硬直したまま気を失った。

腹が減ったことと、電圧で煙が出るほど何度も体を焼かれたことから、カルサスはある日、置手紙を残してウィンダーグ家から去った。

「ナイトへ。リッドが現れたら、早急に教えるように。カルサスより」と読み上げ、ナイトが置手紙を放ると、手紙は空中で燃え尽きた。


そんな事件から20年も経過した頃だ。

早朝に眠ろうとしていたナイトは、物置から調弦の狂ったピアノの音が聞こえてきて、もしやと察した。

物置のほうへ行ってみると、面白がるように鍵盤を乱打する音が聞こえる。そして、その音は鍵盤を鳴らし続けるうちに、自然と正確になって行く。

扉の前に辿り着くと、完璧に音のそろった一節が奏でられ、ピアノの音は消えた。

物置の扉をそっと開けると、窓が開け放たれ、ネズミが食い荒らしたグランドピアノを放置していた場所に、黒く輝く新品のグランドピアノが置かれていた。

鍵盤を誰かが叩いていたはずだが、気配がない。

「伯父殿が来たらしいな」

ナイトは、今頃国境付近の山奥で、仲睦まじく暮らしている少年と少女を、微笑ましく思い浮かべた。

グランドピアノの上に何かが置かれていた。

20年前、ナイトが山奥の少女の家に持って行った、手土産の古いオルゴールのひとつだった。新品に戻っている。

箱を開くと、鉄琴の懐かしいメロディーが流れ出した。よく見れば、中に手紙が入っている。

「親愛なる我が甥、ナイトへ。俺の分の絨毯の謝礼は勝手にもらっていく。心配するな。アンティークが一つアンティークじゃなくなるだけだ。俺のこと、言わないでおいてくれてありがとな。リッドより」

ナイトはその手紙を、月明かりに透かすように見上げて、

「『K』がよけいだ」と満足そうに呟いた。