青い目の女の子 前編

ある、よく晴れた夜のことだった。

それまで50年家に仕えてくれたメイドが、白内障を発症し、これを機会にウィンダーグ家を去りたいと申し出てきたのだ。

当時、既に家の当主であったナイトは、それを聞いて、安堵とも諦めとも分からぬため息をつき、「そうか」と答えた。

「今までよく仕えてくれた。しかるに、最後の仕事を頼みたい」

そう言われ、老いたメイドはきょとんとした顔をしたが、「今の私にできる事でしたら、お申し付けください」と言った。

「3人候補がいる。写真や書類は見えないだろうから、私が読み上げる。だが、名前は言わない。この中から、後任を一名選んでくれ」

ナイトはそう言って、名前は上げず、番号を振って3名分の応募書類を読み上げた。

すると、老いたメイドはにっこりと笑って、「2番目の、巻き髪の、眼鏡をした青い目のそばかすの女の子。その子にして下さい」と答えた。「実に可愛らしいじゃありませんか」

「彼女の名前を教えようか?」ナイトはそう言ったが、「いいえ。それは秘密で」と老婆は答えた。

「私のとっておきの楽しみを取らないで下さいな。私はこれから、『あの時、私の選んだ子は、どんな名前だったのかしら』って思って生きていくんですから」

ナイトも、この老婆の空想好きは知っていた。50年を同じ家で過ごしたのだ。分からないはずがない。

「長く、苦労をかけたな。ありがとう、メアリー」

「ナイト様には、ほんの一瞬の間でしょうけど?」と、少女のようにクスクス笑いながら老婆は言った。「私には、とても愉快な50年でしたわ。今思えば、毎日が夢みたいな」

「これまでが夢なら、ここからは戦いだぞ。病をこじらせるなよ? ポルクス。玄関まで案内してやれ」と、ナイトは小間使いに指示した。


「エリーゼ・ティアーズか…」と、書斎で一人になったナイトは、老婆に残した謎の答を呟きながら、書類を吟味した。

「今年で16歳。3年前両親を亡くし、年下の兄弟を養うために応募、か。実に簡潔だな。身長168cm、体重46kg…必要なのかこの情報は…。とにかくガリガリであることは間違いない」

インク瓶に視線を送ると、待ちかねたように、羽ペンが飛び上がった。

「書類審査通過。面接日の設定を願う」ナイトがそう言うと、羽ペンが羊皮紙に言葉通りの短い手紙をつづった。


数日後の宵に、エリーゼは緊張した面持ちでウィンダーグ家を訪れた。

まだ着慣れていないと見える、決して高価ではない、それでも見栄えない事もないフォーマルウェアを着て、やはり履きなれていないらしい、わずかにヒールのついた黒い靴を履いて。

玄関で陰気な執事に出会ったエリーゼは、一瞬驚いた顔をしたが、決して怯えないそぶりを見せて、応接室に入室した。

そして、先に応接室のテーブルの向こうで待っていたナイトに一礼し、自己紹介をした。「はじめまして。エリーゼ・ティアーズと申します」

「はじめまして。ナイト・ウィンダーグだ。ミス・ティアーズ。ご着席を」ナイトが向かいの椅子を指さすと、椅子が自動的に、エリーゼの座りやすい角度に動いた。

ぎょっとした顔を見せたエリーゼだったが、まるで驚くことすら失礼だと言う風に、顔を紅潮させて椅子にそっと座った。

自動的に椅子が戻ると、エリーゼは「これ以上は驚かない」と心に決めたように、ナイトの目をまっすぐに見てきた。

「応募の動機は、兄弟を養うため、これに間違いは?」ナイトが聞くと、「ありません」とエリーゼははっきりした声で答えた。

「家事全般と庭仕事など軽作業は可能か?」と、ナイト。

「可能です」と、エリーゼ。

「主に夜間の勤務になる事は了解してもらえるかな?」ナイトは書類とエリーゼを交互に観ながら言う。

「もちろんです」とエリーゼは答えた。

「最後に重大なことを聞きたい」ナイトはゆっくりと訊ねた。「募集機関から伝わっているかもしれないが、吸血鬼の屋敷で働くことになることは、承知してもらえるかな?」

「はい。事前に申し付けられています」エリーゼがそう答えると、ナイトは安心したように頷いた。

「覚悟の上で来てくれたなら良い。バトラー、契約書を」ナイトが支持すると、執事が銀のトレーの上に羊皮紙の契約書を乗せて差し出した。


それから3年はあっと言う間に経過した。エリーゼも屋敷の生活に慣れ、ポルクスとは、時々仕事をしながらおしゃべりをするまでに仲良くなった。

「ポルクスは、全然背が伸びないのね?」時々、不思議そうにエリーゼが聞いた。

その度に、ポルクスは言いにくそうに、「うん。昔、ちょっとね…」と答えるのだった。

「ちょっとって、何よー?」と、ある日エリーゼは小間使い用の休憩室で、冗談交じりに問い詰めた。「何か隠してることがあるなら言って。誰にも言わないから」

するとポルクスは、「絶対に内緒だよ?」と前置きしてから、「僕、唯の小間使いじゃないんだ。吸血鬼のしもべであることを契約してる」と告白した。

「それじゃぁ…」とエリーゼが言いかけた時、階段のほうで何かの落下する音がした。

驚いたエリーゼとポルクスが、視線を合わせてから、一緒に頷いて休憩室を出た。

1階に居たエリーゼ達は、2階と1階の間の踊り場でぐったりと横たわっているガウン姿のナイトを見つけ、慌てて駆け寄った。

ナイトの顔は蒼白で、ガウンから出ている手首も足首も、骨が浮いている。

エリーゼは困惑した。この数ヶ月、ナイトがワインの1杯すら飲まないでいたのには気づいてた。だが、吸血鬼とはそんなものかと甘く見ていた。

ポルクスが言った。「僕が寝室まで運ぶから、エリーゼは親族の人に伝えて!」

「分かったわ!」と言って、エリーゼは1階の電話室に駆け込んだ。

長い住所録の中から、唯一知っていたウィンダーグ家の親族、カトリーナ・バーバリーの名前を見つけて、急いでその番号に電話をかけた。


ミセス・バーバリーに、ナイトが倒れたことを他の親族に伝えてくれるように頼んでから、エリーゼはポルクスの後を追って、ナイトの寝室に向かった。

丁度、ポルクスが、背負ったナイトをベッドに寝かせる所だった。

慣れた様子で、枕やブランケットの位置を調節して、気を失っているナイトを仰向けに寝かせて足元にブランケットをかけた。

「ナイト様は…どうされたの?」と、エリーゼはポルクスに聞いた。

「今に始まったことじゃないんだけど…」と、言いにくそうに言葉を濁してから、ポルクスは答えた。「ナイト様、拒食症なんだ。ずっと昔から」

話を遮るように、玄関ががやがやしだした。

陰気な執事が、一人一人、親類の者であることを確認しながら、客を玄関に招き入れている。

「邪魔するよ」と、寝室の窓から声とノックがした。

外は既に街灯とライトアップに照らし出されている時間だが、寝室のあるその窓は馬車通りに面しており、姿を隠すにはもってこいの暗がりが出来ていた。

エリーゼが窓を開けると、鮮やかな赤毛の13歳くらいの少年が、黒い蝙蝠のような羽を閉じながら、寝室に入ってきた。

「ご親族の方なら、玄関からお入りになられればよろしいのに…」とエリーゼが言うと、少年は「ああ、俺は遠縁も遠縁だから、執事に顔覚えられてねーの」と、面倒くさそうに答えた。

「あんた、新しいメイドか?」と、少年はエリーゼに聞いた。

「はい。エリーゼと申します」と言って、エリーゼは一礼した。

「良い時代になったもんだね。吸血鬼の家だってわかりながら、人間が奉公に来てくれるってのは」と、少年は訳知り顔で言った。

そこに、がやがやと親族の面々が集まって来た。

そんな騒ぎをよそに、寝室の隅で眠っていたペルシャ猫が、あくびと伸びをして、もう一度眠りなおしていた。