Cigar flavor 1

夢遊病者と少女は呼ばれていた。

夜中に眠っている間、フラフラと体だけが起き出し、無意識に行動してしまうのだ。

パジャマ姿のまま、裸足で家を出て街を徘徊している所を警官に保護されたり、真冬に眠りながら外に出そうになって家族に止められたりしていた。

そんな彼女を、家族は病院ではなく寄宿学校に入れた。病院に入れるには体裁が悪すぎる、夜間は閉鎖される寄宿学校なら、外に出て行ってしまう事もないだろう。

家族はそんな風に考えたのだ。夜間は確かに寄宿舎の門は閉ざされるが、窓は普通の鍵がかかっているだけだ。

少女は無意識に窓から外へ出て、フェンスで仕切られてる校舎の中を夜ごと徘徊していた。

見回りの警備員に見つかることもあったが、その日は校舎裏の庭にあるフェンスのギリギリのところまで徘徊してきていた。

煙草のにおいがした、と少女は思い、薄っすらと目を覚ました。

フェンス越しの向こう側で、誰かが煙草を吸っている。

まだ寝ぼけている少女は、誰だろうと思って、月光の射している男子の寄宿舎の裏庭をよく見た。

そこでは、40代くらいの背の高い男性が、木陰で一服している所だった。

男子寮の警備員さんだろうか、と少女は考え、「ハロー」と声をかけた。

男性は、驚いたように少女を見た。「ハローって…君、どうしたんだい?」と、男性は聞いてきた。「そんな、素足でコートも着ないで…」

「わ、私…夢遊病なの。寄宿舎で眠ってたんだけど、気づいたらここにいたの」少女は極まりが悪そうにくしゃくしゃの頭をかくと、夜風の寒さにくしゃみをした。

「これを着て。すぐに寄宿舎に戻るんだ」と言って、男性は自分の着ていた秋物のコートをフェンス越しに放ってくれた。

「ありがとう。あなたの名前は?」と、少女は舞い降りてきたコートを受け取り、寝ぼけながら聞いた。

「名乗るほどでもないよ。唯の警備員だ」と男性は言った。

「あたしはルイジ。ありがとう、警備員さん」と言って、少女はふらふらと寄宿舎に戻った。

ルイジが無意識に開けて出てきた窓は、まだ開けっぱなしだった。彼女は窓から寄宿舎の中へ戻り、自分の部屋に辿り着いくと、コートを着たままベッドにうつ伏し、眠りこんでしまった。

魔法にでもかかったかのように、それからルイジの夢遊病は、ぱたりと止んだ。

ルイジはしばらくの間、眠って起きた後も足の裏に土がついていないことが不思議だったが、ベッドの隅で見覚えの無い布がクシャッと丸まっているのを見つけて、何気なく広げてみた。

それは、男性物の薄手のコートだった。布から、淡い煙草の香りが漂っている。コートの胸の内側に、イニシャルが刺繍されていた。

「J.H」と読み上げて、少女は数日前に校舎裏で出会った男性のことを思い出した。

あれは夢じゃなかったんだ。少女はそう思って、その日の授業中の間、月影の中に見た年上の男性の顔を思い浮かべた。

髪の色は分からなかったが、少し銀色に近く見えた覚えがあるので、きっと金色の髪をしているに違いない。青い瞳の色ははっきり思い出せた。すっと通った鼻筋、引き締まった頬、薄い唇。

女子寮で人気の占い師の女の子がいる。まだ10歳程度だそうだが、その子に「相性が良い」と言われた秘密のカップルは、誰もが卒業後にめでたく結婚しているらしい。

ルイジは、たった一度しか会ったことの無い、しかも顔も姿もうろ覚えの、親子ほども年上の男性と、結婚なんて考えて無かった。でも、もう一度会えるのかくらいは知りたかった。

洗ってプレスしたコートを返さなければならないし、ルイジも、あれからぱったりと夢遊病がやんだ秘密を、その男性が知っているような気がしたのだ。

ルイジは、まず噂の占い師に、相談してみることにした。

占い師は、サファイアのような眼と亜麻色の緩いウェーブのかかった長い髪をした少女だった。占い師の寝室に招かれたルイジは、きっとこの子は、将来は人目を惹く美女になるに違いない、と思った。

「あの…相手の顔とイニシャルは分かるの。でも、名前は分かんない」と、何処から説明した物か迷いながら、ルイジは言った。「相性とかはどうでもよくて、ただ、もう一回会えるのかを占ってほしいの」

「何処で会ったの?」と、占い師は聞いてきた。

「寄宿舎の裏の、男子寮の裏庭が見える、フェンスの所。でも、約束とかしたわけじゃなくて、私が…その…眠ってる間に、勝手に行動しちゃう病気なの」

ルイジは、拙い話術で、なんとか状況を説明した。

「なるほど。その人が、夢遊病を止めてくれたかもしれないってこと?」と、少女は年の割には大人びた顔で話をまとめた。

「確証はないの。そんな気がするだけ。それで、コートを返してお礼が言いたいから、もう一度会えるか占ってほしいの」とルイジが言うと、占い師はタロットも切らずに困った顔をした。

「男性は、大体の場合決まった場所で喫煙するから、同じ時刻の同じ場所にもう一度行けば、休憩中のその警備員さんにも、会えるかもしれない」

占い師にそう言われ、ルイジは少し表情を明るくした。だが、占い師の言葉は続く。

「でも、夜間は誰も外に出ちゃいけない決まりなのは、分かってるわよね? 無意識に行動しちゃうなら仕方ないけど、『意図的に校則を破れ』とは言えないわ」

占い師はそう言って、ルイジを自分の寝室から送り出した。

「コートを持って行くのを忘れないようにね、眠り姫」と悪戯っぽく言うと、占い師は寝室のドアを閉じた。