闇の鼓動 Ⅰ 3

「Kid-A」と書かれた札を首から下げた少女が、部屋の隅で震えている。腕には何度も注射器を刺された痕があり、男の子のように短く切られた黒い髪は、ぐちゃぐちゃだ。

扉の向こうには、巨大なナメクジか、ヒルのような生物が、操作盤からキーコードを打ち込んでいる。

扉が開く前に、遠方から、ライフルの射撃があった。ヒルは体液を吹き散らしながら、暴れ狂う。

簡易結界で身を包んだレミリアと、銃を構えているラナが、廊下の向こうに居る。ラナが2撃目、3激目を撃ち込む。4撃目が、ヒルの中枢神経を砕いた。

ヒルは壁からずるずると剥がれ、溶解し始めた。

「『実験体』は溶けるのか…」と、ラナが呟く。

「大元は、『感染者』と同じ変異を起こしてるけど、体液だけ『ウェアウルフ細胞』を攻撃する威力を持たせてるんだって」と、レミリア。「こんな風に消滅するんだって言うのは、初めて見た」

「レミリア、お前は此処に居ろ。子供は私が連れてくる」ラナはそう言って足を運ぼうとした。

「待って。キーコードは分かる?」と、レミリアはラナの腕をつかんで引き留める。

「分からないな」と、ラナは答えた。「レミリア、簡易結界は忘れるなよ」


レミリアが操作盤からキーを解除し、隔離室の扉が1枚開いた。2番目の扉には、魔力を送る。

「封じ」が解かれ、扉が開く。レミリア達は隔離室に入った。

「アンジェ。大丈夫?」と、レミリアが声をかける。

アンジェは、レミリアが簡易結界を起動していることを確認してから、恐る恐ると近づいてきた。そして、防護服を身に着けていないラナを見て、表情に緊張を走らせた。

自分の体液が、他人に危害を及ぼすものであると分かっているらしい。

「この人は大丈夫。『特別製』だから」と、レミリアは明るく言う。「この人は、ラナ。私の友達だよ」

「私は…」と言おうとして、アンジェは口をつぐんだ。どちらの名前を名乗ろうか迷っているようだ。

「あなたの名前は、もう教えてある。いつも通り、『アンジェ』で良いよね?」と言って、レミリアは微笑む。

「うん」と、アンジェは答えた。


アンジェの話を要約すると、数十匹の実験体が暴動を起こしたようだ。

自分達が、いずれ外へ解き放たれ、「感染者」と、毒の入った肉であるかの如く食い殺し合うように作られたのだと言う事情を知ってしまったのだ。

「普通の『ウェアウルフ化』と違って、私の血から作った『実験体』は、知能が上がるみたいなんだ」と、アンジェは言う。

ラナは、先ほどレミリアが見せた書類の中に、「実験体」のデータがあったことに気づいた。

「様々な生き物を『実験体』にしていたようだな。最たるものは、死刑囚か」と、ラナが言う。

「人間の知能が上がったら…どうなっちゃうの?」と、レミリア。

「IQのテスト結果がデータにある」ラナは、脳裏に浮かんでいるデータを読み上げる。「平常時、105。第1回投与時、240。第2回投与時、570」

「なんなのそれ! 感染を止めるのと、全然関係ないよ!」と、レミリアは怒気を込めて言う。「そんなことを実験して、なんになるっていうの?!」

「頭の良くなる薬、が作れる。実験途中で打算を思いついたのだろう」と、ラナは答える。

「絶対認めない。そんなことのために、アンジェが何度も血を抜かれてたなんて…」レミリアは怒りを抑えきれないようだ。

「レミリア、気持ちは分かる。だが、今は感情を優先すべきではない。『仲間』が死んだことに気づいた者が、近づいてきている」

レミリアは、冷静さを取り戻し、目に力を宿すと、壁を透かして「実験体」の位置を確認した。

何かが、跳ねるようにエレベーターホールから近づいてくる。夕刻が迫っているので、身体能力が上がってきているのだろう。

ラナはアンジェを片腕に抱え上げると、「地上に戻るぞ。距離を取れないと、分が悪い」と言い、レミリアと共に非常階段へ向かった。


景色の一切変わらない、狭い階段を駆け上がる途中、やはりレミリアの体力が尽きてきた。「お願い。少し休ませて」と、へとへとになったレミリアは言う。

「4分間なら、時間がある」と、ラナは追っ手の移動速度と、自分達が距離を稼げた時間を計算して言う。

「ただし、その時間を休んだら、アンジェと一緒に地上に向かえ。日が沈む前に。追っ手はここで食い止める」

「分かった。その時は、『転移』を使う」そう言って、レミリアは階段の途中に座り込んだ。

簡易結界を維持しなければならない余力を考えて、出来る限り術を使わないようにしていたのだ。

4分間が経過する頃、誰かが階段を上がってくる音がした。カツーン、カツーン、と蹄で叩くような音が響く。

「レミリア」と、ラナが呼び掛ける。

レミリアは、「行こう、アンジェ」と言って、簡易結界越しにアンジェの手を引き、地上を見上げた。出口に危険がないことを確認して、術を起動した。


地上に出る封鎖口の鍵に、レミリアは魔力を宿した手を触れる。扉を締め上げていた鎖と鍵が解かれ、鉄の扉がゆっくりと開く。

空は、淡く赤味がかってきている。

周囲に「実験体」は居ないようだ。

「レミリア様」と、呼ぶ声がした。レミリアが声のしたほうを向くと、青ざめた顔の、赤茶色の髪の執事服を着た男性が居た。

「ルルゴさん!」と言って、レミリアが近づこうとすると、ルルゴは片手を前に出し、レミリアに「だめです。近づかないで下さい。既に実験体から『感染』しています」と言った。

その右手が、肘から食いちぎられ、傷口からは粘着質の赤黒い液体が滴っているのを、レミリアは観た。

ルルゴは、左手で、胸ポケットから灰色の手帳を取り出し、レミリアのほうに放った。レミリアは、危険が無い事を確認してから手帳を拾った。

表紙の文字はかすれ、なんとかウェラー財団、としか読めない。

「その手帳で、アリア様からの通信が読めます。アリア様は、ご無事です。避難先で、レミリア様の到着を待たれております」

ルルゴはそう言ってから、震える手でジッポーライターを点滅させた。出来る限りたくさん。

鬼火の群れが、レミリアとアンジェを包む。

「私にできる、最後のご奉公です。どうぞ、幸運を」と言うと同時に、ルルゴはライターを取り落とし、俯けに倒れこんだ。体がねじるように兎の姿に戻る。

「ルルゴさん…」と、レミリアが言葉を失う。

「死んじゃったの?」と、アンジェが聞く。

レミリアは、目に力を宿し、ルルゴの変化を観た。「死んでない。でも、もうルルゴさんじゃない…。『変化』を起こしかけてる」

レミリアには見慣れた兎の姿が、次第に異形の物に変わって行く。レミリアは、アンジェに言う。

「アンジェ、あなたは隠れてて」

アンジェは、「分かった」と言って、レミリアから離れた。