ラナの視界に、追っ手の影が透視できた。追いかけてきていた「蹄の音」は、2本足で跳ねるように歩く、鹿と爬虫類を混ぜたような生き物だった。
「キメラだな。何のために融合させたんだ?」と、ラナは思考の中で問いを浮かべ、その問いを頭の片隅に保存しておいた。
上に上げた2本の腕の先は、カギ爪状になり、口から滴る唾液を、時々その手で拭う。両脇腹にもムカデのように腕があり、爪を備えている。
ラナは、実験室で観た書類の中のデータから、この異形の物が、その身の通り、「Hoof」―蹄―と呼ばれる実験体であると分かった。
ラナの「鼻」に、生肉の腐ったような臭いが漂って来たのが分かった。「Hoof」が発している、一種のフェロモンのようだ。
「肉の臭いで虫を釣る…ラフレシアと同じか」そう言って、ラナは研究所で手に入れたショットガンで、「Hoof」の頭を真上から狙った。
だが、その珍妙な生物は、思いもよらない瞬発力で、弾道を避けた。壁に脇腹の爪をひっかけ、瞬く間に登ってくる。
レミリア達を逃がしておいて正解だった、とラナは確認し、「Hoof」の移動速度を計算した。
「1秒後、目の前に来る」と判断したラナは、追い立てるように2発、「Hoof」の後ろに銃弾を放ち、実験体がラナの目の前から、ラナに向けて跳躍しようとした時、真正面に弾丸を放った。
脳を貫かれ、「Hoof」は急な階段を落下して行った。
伸ばした右腕に「Hoof」の体液が僅かに付き、ラナは迷惑そうに腕を振った。
地上では、次第に異形の物に「変化」してゆく兎の姿を、レミリアが怒りを宿した瞳で見ていた。「実験体」から感染した者の成れの果てを。
これが、私達の守って来た「解決策」か。こんなものを生み出すために、お母さん達は奔走していたのか。
レミリアは、悔し涙を一筋流し、受け取ったばかりの手帳を握りしめた。
お母さんは、このことを知って居るんだろうか。アンジェは、ラナは、どうなるんだ。そして、私は…。
レミリアは覚悟を決め、目の前の異形のものを観た。膨張した肉の塊の中から、爪のような突起物を出した化物は、のろのろとした動きでレミリアに近づいて来ようとした。
執事服を着た、青白い兎の姿をした霊体が、肉の塊の上に居る。そして言った。「レミリア様、この『芽』を潰すのです! 鬼火を使って! さぁ、早く!」
レミリアは、鬼火のエネルギーを青い炎の矢に変えると、肉塊の体中にある爪のような突起物にぶつけ、焼き尽くした。
「芽」を失った肉塊は膨張をやめ、諦めたかのように溶解し始めた。役割を終えた鬼火は、また普段の姿に戻り、レミリアの周りに集まってきた。
兎の霊体が、レミリアに言う。「体を失ってまで、このような姿をさらすことをお許しください」
「何言ってるの。すごく嬉しいよ。でも、ルルゴさん。あの肉の塊はなんだったの?」レミリアは、兎の霊体に尋ねた。
「大地を食う癌でございます」と、ルルゴは言う。「エネルギーを得て地面に根づいた場合、永久に増殖を続けるのです。ただ、それだけの生き物でございます」
「私に近づいて来ようとしたのは?」
「有機物として食べるためでございます。言わば、肥料にするために」
「結局、食物連鎖は免れないんだね」レミリアが呆れたように言うと、騒ぎが治まったことを察したアンジェが少し近づいてきた。「レミー、誰と話してるの?」
「ここに、さっき死んじゃった兎さんの霊体が居るの」レミリアは答える。「魔力を操れる者だから、星の外には放り出されないみたい」
そこに、地下からラナが姿を現した。
「ラナ」と呼んで、レミリアは簡易結界を解いたまま駆け寄ろうとした。
「待て。結界を起動させろ」と言って、ラナは一歩後退った。「『実験体』の体液を少し被った。通常の『感染』とは反応は違うと思うが、どうなるか分からない。私が体を洗うまで、接触するな」
「分かった。どうなるかは、今見たところだよ」と言って、レミリアは肉塊のあった場所を振り返った。
すっかり液体となった肉塊の下に、小さな野菊が咲いていた。
施設内にあった、まだ水の出る「洗浄室」で、ラナは全身に消毒薬のシャワーを浴び、水のシャワーで浄めた。清浄機を通した乾燥した空気で全身を乾かすと、洗浄室の外に出た。
衣服用の洗浄機も、まだ生きていた。洗い上がったブーツと服が、乾燥されてコンベアから出てくる。皮の衣服に水をかけるのは非常識かもしれないが、今の状態は常識のほうが危うい。
ラナが着替えを済ませる間、レミリアはルルゴから受け取った手帳を見ていた。
「通信」の魔術がかけられているが、魔術は不完全で、アリアのほうから一方的にしかメッセージを記せないらしい。
通信は、2日前で止まっている。
「アリア・フェレオからの情報はどうだ?」と、着替えを済ませたラナが聞く。
「お母さん達、西に逃げたみたい。海の方。お母さんは、若い頃、ベルクチュアの海の主から指名手配されたから…海に逃げるわけにはいかないのに」
ページをめくると、ルルゴへのメッセージが最後に記されている。「南の山に、禁猟区がある。キッドAを其処へ。レミリア達を頼んだ」
レミリアが読み上げると、ラナは「此処から南か」と呟いた。そして、窓のないその部屋から、外部の様子を透視して、「しかし、今日はもう日が沈む。移動は明日にしよう」と言った。
「うん。結界作るね」と言って、レミリアは、色々な物質を練り固めたクレヨンのようなもので、長椅子にアンジェ用の小さな魔法陣を描き、結界を起動した。
「アンジェは、この中で眠って」と言われ、幼子は素直に結界の中に入った。
それからレミリアは荷物の中から薄い絨毯を取り出した。守護の結界があらかじめ織り込まれている。
「ミリィの魔力の気配がするな」と、ラナは言った。
「うん。お母さんが、ミリィからもらって、それを私にくれたの。ラナを作り上げるまで、長丁場だろうからって。2人は入れるから、ラナもこの中で休んで」
「私に休息は必要ない。必要なのは充電だけだ」と言って、ラナは両手の爪を見せた。「爪と瞳から光を受け取ることで、モーターが起動する」
短く説明し、ラナは電気の明かりを見上げた。「日光より光は弱いが、この明かりでも十分だな」
「でも、充電の間は無防備でしょ?」と、レミリアは返す。「私、ちゃんとラナの器が作られるところ見てたんだからね? 強がってないで、ちゃんと魔法陣の中で充電して下さい」
そう言われ、ラナは「強がる」と言う感情を自分が持っていたことを発見した。