見つけたのは、ひどく静かな心だった。
彼には混乱と知識と暗澹とした「現在」があるだけ。
彼は生まれた時…正確には、意志を持って目を覚ました時から「大人」だった。造物主と言うものが、かつて彼の「先祖」をそう作ったと言う神話の下に創られたのだ。
研究者達は、実際に神話に則した「人間」を作った場合、どうなるかを観察したかったのだ。そしてそれが本当に完璧な生命であるなら、「今後」のために利用できるから。
彼は、世界の全ての物には、自分の「祖先」である、「アダム」という人物が名前を付けたのだと聞かされていた。
空に見える、あの強い光を放つ光の穴は、実はエネルギーを放っている恒星と言うもので、「太陽」と言う。
夜に光を放ち、形を変える宙の穴は、「太陽」のエネルギーを反射している「月」という名前の物。
夜空を埋める白い点々の光の粒達は、「星」。「太陽」も「月」も、「星」の一種。そして、自分が今立っている「大地」も、「地球」と言う名の「星」。
そんな知識がうるさく頭の中を埋めようとする。彼は、「既存の知識」に飽きていた。
名前をどれだけ知ってても、映像をいくら見ても、彼は自分の感覚で学んだことが何もなかったのだ。
食べること、服を着ること、安全なねぐらを確保すること。これも、教えられた知識だった。
彼の「体」が作られてから、最初の食事は「点滴」で補給され、排泄は寝たきりの入院患者と同じ扱いを受けていた。
知識が身につくにつれ、それを「恥ずかしい」と思う気持ちが芽生えた。
「『トイレ』に行かせてくれ」と言い出し彼を、研究員達は「ようやくエデンの林檎を食べたようだ」と言って笑っていた。
その出来事は、ひどく彼の自尊心を傷つけ、自分を、知識として教えられていた「造物主の子孫」なんかじゃない、と否定する気持ちを生んだ。
彼は、「子供」として学ぶ時間も、余裕も、与えられていなかった。
最初から「大人」の体を持ち、毎日大量の知識を植え付けられる。
そして気づいた。「エデンの林檎」は、「知恵をもたらす実」。知恵を食べさせ続けたのは、自分を作った研究員達じゃないか。
彼は、その時、意志を持った。何故自分は生まれたのか、何故研究者たちは学ばせるのか、何故この「世界」はあるのか。
暴き出した「真実」は、ひどく残酷なものだった。
彼は、心を閉ざした。そんな彼に、研究員達は、「失敗作」の烙印を押し、殺処分を決めた。
僕の「人生」は、なんだったんだ。思い出そうとしても、彼に「過去」はない。3ヶ月ほどの集中的な「知識」の学習だけが、頭の中で渦を巻いた。
此処に居れば殺される、だが、何処に行けば生きられる? そんな問いを心の中で重ね、いずれ来る「終わり」を待った。
その「終わり」は、彼や、研究者の予想とは別の形で起こった。
動物をベースに創られた、キメラ達が暴れ出したのだ。「戦闘型」に創られていたキメラ達は、その能力で研究所を破壊し、研究員を殺傷し、逃亡した。
「箱舟」を抜けだした、不思議な生き物達を見て、彼は「生きる意志」を固めた。彼もまた、一匹の「死を待つ実験体」として、研究所を逃げ出した。
走って、走って、疲れたら息を整えて、また走る。体を動かすのは苦しいが、心地好かった。
一度も土を踏んだことが無かった足に、マメが出来ても、彼は「出来るだけ遠くへ」向かった。
木々が揺れ、小川の流れる場所についた。彼は、「地面を流れている水は危険だ」という知識も無視して、小川に口を突っ込み、水を飲んだ。
「お前さん、何処から来たんだね?」と、知らないしわがれた声が聞こえてきた。
ハッとして、はいつくばっていた地面から体を起こすと、白髪としわ深い顔の「老婆」が、不思議そうな顔でこちらを見ている。
「あの…僕は…その…」
言い訳を考えていると、彼の腹が音を鳴らした。彼には、初めて聞く音だった。
老婆は「お腹減ってるのかい。私のお弁当でよければ、あげるよ」と言って、「自転車」の籠からバスケットを取り出し、ロールパンにハムやチーズやレタスを挟んだものを差し出してきた。
心はつぶれていても、体は生きている。彼は匂いにつられて、ロールパンのサンドイッチをわしづかみにし、「作法」も忘れて、原始人のようにガツガツと「食べ物」を食べた。
きっと、粗野な荒くれものだと思われただろう。そんな風に思っていた彼に、老婆は悪意のない笑顔で言う。「良い食べっぷりだね。お茶も飲むかい?」
彼は、その言葉の意味がまだ分からなかったが、「お茶」と言う言葉を聞き取り、頷いた。
老婆は、「娘が、上等な茶葉をくれたんでね。自慢したいんだよ」と言いながら、花の香りのするお茶を、カップの形になって居るポットの蓋に注いで、彼に差し出した。
彼は、喉を鳴らして、飲み頃のお茶を空にし、カップを勢いよく老婆に差し出した。
老婆は、「お代わり」の意味だと思ったらしく、ニコニコしながら2杯目のお茶を注いでくれた。「美味しいお茶だろ? ああ、慌てて食べるとむせるよ?」
彼は、その時、ようやく安息の場所を見つけたのだ。
彼が初めに着ていた、泥だらけの白い衣服は、「なんだか寒々しいね」と老婆に言われた。
老婆は、古いタンスから、下着と白いシャツに皮のベスト、それからしっかりしたデニムのジーンズを取り出し、彼に差し出した。
「息子の残して行ったものだけど、サイズは合うかい?」と聞いてくる。彼は実際に着替えて見せ、腕を伸ばして見せた。
老婆は、彼の「過去」に深入りしなかった。だが、彼を自分の家に置き、一通りの家事と野良仕事を教え、「力仕事係」として働かせてくれた。
働くことは楽しかった。トンカチの扱い方が上手くなると、彼は自分で設計した本棚を作り、老婆はそれを喜んでいた。
「幸せというのは束の間の者だ」と、彼は今になって思う。田畑を耕し、収穫を喜び、その日一日の短い仕事を終えて、暖かい食事を摂って、満ち足りた眠りに就く。
その短い「過去」を、彼は何度も懐かしんだ。
ある日、起きてこない老婆を探して寝室に言った彼は、老婆が眠ったまま亡くなっているのを発見した。
彼は、「知識」の通り、電話で病院に連絡を入れ、老婆の死を知らせようとした。だが、その時、既に、彼を作った世界は、混乱の中にあった。電話は通じなかった。
老婆の亡骸を裏庭に葬り、花を供えて、彼は再び山野に向かった。
彼は、飛ぶものや、空を通るものが好きだった。鳥、蝶、雲、太陽、月、星、飛行機、ヘリコプター…なんでも。
棒切れのような不思議な虫が、群がって飛んでいる場所を見て、彼は思わず手を伸ばした。捕まえようとしたのではない。「待って」と、彼は声をかけた。
棒切れのような、空を飛ぶ赤い虫は、トンボと言うものだった。トンボの一匹が、彼が伸ばした指先にとまった。
「言葉」とは違う、「思い」が伝わったのだ、と彼は思った。知識でがんじがらめにされていた脳が、「夢」を観ることを覚えた。
彼はそれから、この混乱した世界に「博愛」を持った。この混乱が、永遠に続けば良い。いや、この混乱は、永遠だ。だって、僕がそう望んでいるんだから。
子供が無邪気に世界の終末を思い浮かべるように、彼は世界がどんどん壊れて行けば良いと思った。自分を取り巻いていた「知識」という世界が。
