闇の鼓動 Ⅳ 1

街を見下ろせる山野で、彼は初めて「視野」を使った。街の中で殺し合う「感染者」と「実験体」の姿が観える。彼はしばらくその攻防を呆けたように見てから、歯を見せてにやりと笑った。


「灯台」の中に身を潜めていたマイク達も、異変を感じた。頭の中に、「カイン」以外の声がする。正確には、何者かの「意識」が影響してきている。

ある女性が悲鳴を上げた。背後から襲い掛かってきた男に、ワニの骨を削って作ったナイフで、背中を刺されたのだ。

「やめろ! 何してる!」と言って、マイクとオリン、それから数名が、理性を失った「仲間」を取り押さえた。

「殺せ…壊せ…狂え…」と、ワニの骨のナイフを持った男は呟いている。目は何処も観ておらず、オリンが男からナイフを取り上げると、発狂した者は両手で「仲間」の首を絞め始めた。

「カイン! 助けて!」と、オリンが叫んだ。

途端に、マイク達の頭の中に響いていた「意識」はジャミングされた。

発狂した者も通常の意識を取り戻し、仲間の首を絞めていた手を、驚いたように離した。「俺は…一体何を…」

意識の浸食から逃れた者達は、怪我をした女性の手当てを始めた。それを見てから、マイクは灯台の階段を駆け上がった。


カインの部屋に行くと、カインが椅子から立ち上がったまま、指で眉間を押さえ、歯を食いしばっていた。

「カイン。何が起こってるんだ?」と、マイクは聞いた。

「うるせぇよ。今、俺の『意思』で押し返してる」と、カインはマイクのほうを見もせずに言う。「かなり強い『念波』だ。形は朧気だがな。浅く広く拡散されてる」

「魔術か?」と、マイク。

「違うな。俺やセトと同じ種類の力だ」そう言って、カインはようやく眉間から手を放した。「治まった。どうやら、無意識に『念波』を飛ばしているらしい」

「もしかして、『アベル』が?」マイクは聞く。

「その可能性は大きい。キメラ共に、これだけの念波は出せない」と言って、カインは顔を曇らせる。「灯台の連中に被害は?」

「女性が一人、仲間に背中を刺された。今、手当てされてる」

マイクがそう言うと、階段を駆け上ってくる足音がした。オリンが、カインの部屋に飛び込んでくる。「カイン。なんだか変だ。村に居た『感染者』が…暴れ狂ってる。知能を無くしたみたいに」

「近くの漁村か…。そっちまでは手が回らない。『灯台』を守るだけで、俺には手一杯だ」カインはそう言い、目を赤く光らせて遠くを見た。

「セトは…公園か。ほう。人間も、ついに知恵が回ってきたらしい。ヘリが救助に来てる。マイク、お前、まだ守護の護符は持ってるか?」

「あ、ああ」と言って、マイクは護符を取り出して見せた。

カインは護符の効力がまだあることを確認して言う。

「恐らく、あの『意識』に邪魔されずに移動できるのは、お前だけだ。セトの加勢に行ってくれ。俺は此処の連中を守る」

「了解。と言いたいが、俺も月の光には注意しなきゃならいんだよな?」と、マイクは確かめる。

「ああ。夜になったら、物陰に隠れてろ。絶対に月の光は浴びるな」

カインがそう言うと、出入り口が自動的に開いた。

「行ってくる」と言って、マイクが部屋を出ようとすると、オリンが「待って」と呼び止めた。そして、さっき発狂した者から取り上げたナイフを差し出す。「こんなのしかないけど、持って行って」

マイクはナイフを受け取って、「ありがとな」と言うと、灯台を離れた。


グランの町までを走る間も、時々、マイクの頭の中に何かの「意識」が影響してきたが、その度に、護符が弱い力を発して、持ち主を守ってくれた。

時速50キロで走っているマイクは、やっぱり自分はどうあっても人間ではないらしいと再確認した。

車を使えない今の状況では、この身体能力の向上は幸いだったが、通常の世界で車並みのスピードで長時間走る人間が居たら、確かに化物だ。

変異したウェアウルフ・ウィルスは、宿主に能力を与える代わりに、極度の飢えを引き起こす。

もし、またアリア達と合流できる時が来たら、説明しなきゃならないことは山積みだな、と、マイクは心の中で唱えた。


「灯台」のある場所と、グランの街の間には、丘程度の山がある。グネグネと道は歪み、ちょっとしたマラソンコースのようなものだ。

この山…とも言えない600メートルほどの丘で隔てられているおかげで、国のほぼ中央で起こっている殺戮現場とは隔離され、「灯台」の住人達は平和に暮らしているのだ。

こんな場所に「ワニ園」を作った自治体にも、マイクは少し感謝した。見世物でも無ければ、産業を活性化できない場所であると言えばそうだが。

30分ほどで山を走破し、後は平地を疾走するのみだ。

一度、歩幅を緩め、ふぅっと息を整えた。マイクは自分の握っているナイフを見る。役に立つかどうかより、これはオリンから託された「バトン」のような気がした。

「誰だって、明日死にたかないもんな…」そう言って、マイクは再び走り始めた。


ようやくたどり着いたグランの街は、相変わらずの惨状だった。だが、オリンが言っていた通り、感染者は「餌を狩る」のではなく、「暴れ狂って」いる。

建物や植物、地面等を、ひたすら壊している者達も居れば、それ以上攻撃の必要が無いにもかかわらず、死体を八つ裂きにしている者達もいる。

この状況だけを普通の人間に見られたら、「ウィルスの末期症状」が起こってると思われかねない状況だ。

マイクは、狂乱する者達を横目に、グランの中央公園に急いだ。

公園に到着すると、バリケードに向かって攻撃を加えている者達が人垣を作っていた。

根本は、飢餓から来る攻撃のようだったが、鉄の板や鉄条網を素手で殴って逆にダメージを受けている。鉄条網を解いて、鉄板を剥せばバリケードは敗れる、と言う知能さえなくなっているのだろうか。

そもそも、結界すら張られていないのだから、バリケードなど跳び越えてしまうこともできるのに、誰もそれをしない。

その理由が、「セト」の能力による「抑制」であったのだろうと、マイクは推測した。しかし、今は「セト」の意思を凌駕する者の「意識」が浸食している。

いつ、誰かが「気づく」かも知れない。マイクは、人垣の一番後ろに居た者の肩をつかみ、全力で遠くに放り投げた。

遥か彼方に吹き飛ばされた者は、さっきまでの行動を忘れ、別の「破壊対象」に攻撃を加え始めた。

その知能の劣化を、マイクは複雑な気分で受け止めた。そして、群がっている「感染者」達を、バリケードの前から引きはがしにかかった。