闇の鼓動 Ⅳ 4

「ねぇ。ねぇ、お姉ちゃん。お姉ちゃん、誰?」と、小さな男の子の声がした。

暗闇でレミリアが振り返ると、5~6歳ほどの少年がいる。白に近い金色の髪と、鮮やかなアースアイを持った少年が。

レミリアは、「あなた、何処から来たの?」と聞いた。

少年は、「わかんない」と答えた。「ざわざわする音がするんだ。頭の中で。これ、何?」

レミリアは、わずかな力を片手に宿し、少年の額に触れた。彼の頭の中にある、微細な「知識」と言う記憶が読み取れた。レミリアは、少年にその「物音」が聞こえないように、記憶を遠ざけた。

頭の中の音が止んだことが分かった少年は、表情を明るくした。「うるさくなくなった」と言い、「ありがとう」と続けた。

レミリアが自分に何か「手当て」をしてくれたんだと言うことが分かったようだ。

「あなたの名前は?」と、レミリアは聞いた。

「あ…アベルって、呼ばれてた」と、少年は言う。その名がつけられた意味は、レミリアの術で彼の意識から遠ざけられていた。

「お姉ちゃんの名前は?」と、少年の姿のアベルは言う。

「レミリア」と名乗り、「レミーって呼んで」と言って、レミリアは少年に手を差し伸べた。「真っ暗で危ないから、お姉ちゃんと一緒に行こう」

「うん」と、明るくアベルは答え、小さな手でレミリアの手を握った。「僕ね、ずぅっと眠ってたんだ」

「そうなの?」と、闇の中をゆっくり歩きながら、レミリアは優しく少年に聞き返した。「いつ、目を覚ましたの?」

「いつだろ? いつの間にか、外の世界に居た。でも、眠るとやっぱりここに来ちゃう」

「此処が何処か、分かるの?」レミリアは努めて穏やかに問う。

「ううん。何処かは分かんないけど、僕が最初に居た場所。最初の場所から、あんまり動けないんだ。歩いても、歩いてる気がしなくて…」

アベルは不安げにそう言い、自分の手を握っていてくれるレミリアを、嬉しそうに見上げた。

「でも、今日は、レミーが居るから、ちゃんと『歩いてる』って分かる。見て、僕達の進んで行くほう。きっと、出口だ」

そう言ってアベルが指をさす方向に、白い光が灯っていた。

歩を進めるたびに、その光は近づいてくる。レミリアの耳に、「音」が聞こえた。銃撃、爆音、悲鳴、何かの砕け散る騒音。

レミリアは、反射的にアベルの頭を覆うように抱きしめ、光の中の光景から守った。

見せてはいけない。聞かせてはいけない。こんな世界を。この子はまだ、幼すぎる。

「レミー、どうしたの?」と、アベルは言う。「外に出れたの? なんで、こんなにうるさいの?」

レミリアは、いつの間にか涙ぐんでいた。彼が生まれてくるまでに、こんな世界しか用意できなかった、自分達を呪って。

「アベル。此処は危ない場所だから、もっと静かな所に行こう」

レミリアがそう言うと、辺りの様子が変わった。海の近く。レミリアの母であるアリアが、かつて訪れたと言う、ピュアマリンと言う宝石の採れる浜辺。

レミリアは、そっとアベルから離れた。少年は、真っ青な空と海を見て、目を輝かせた。

「すごいや。これが『外』なんだ!」と言って、少年は波打ち際まで海に駆け寄った。足元に寄せてきた波が、踏んで居た砂をさらって行く。

「うわー。変な感じ。足がくすぐったい。あれ、何かある」と言って、少年は砂の中から、透明な青い宝石を拾い出した。「すごく綺麗。真っ青」

そこは、レミリアの「想像する」浜辺だった。アリアに似た魔力を持っているレミリアも、海獣からの襲撃を避けるため、一度も海には出かけたことはなかった。

「うん、綺麗だね」と言って、レミリアは、少年の頭を撫でた。

「あれ? レミー、体が透き通ってる…」と、アベルはレミリアを見て言う。「待って。レミー。何処行くの? 置いて行かないで!」

レミリアは、自分の意識が覚醒しようとしているのだと気づいた。浜辺の光景が、どんどん遠ざかる。「此処で待ってて。また、必ず会いに来る!」

そう少年に伝えた途端、目が覚めた。


「レミリア。気が付いた?」と、キルテの声がする。「あなた、3日間も意識が覚めなかったのよ?」

「3日間…」と言って、体を起こそうとして、レミリアはひどい目眩を覚えた。何も食べていなかったからだろう。

「薄いスープを作るから、ちょっと待っててね」と言って、キルテは部屋を後にした。

しばらく、ベッドの上でぐんにゃりしながら、レミリアはキルテが戻ってくるのを待った。さっき見た夢が思い出される。

あの少年は、本当の「アベル」なんだろうか? それとも、私の思い描いた幻想なんだろうか。そんな風に考えて、自分の手に残る、少年の髪に触れた時の感触を思い出した。

生まれたばかりの者が幼い事を、罪だととがめられるものがこの世に在ろうか。否。

いつか聞いた霊媒師としての「心得」を思い出し、レミリアは、ぎゅっと目をつむってから、3日間で鈍りきった体を、なんとか起こした。

アベルの追跡をお母さん達に任せてたけど、どうなったんだろう。この3日間の間に、変化はあったんだろうか。

フラフラして今にも転びそうになる体を、ベッドの端や、壁に預けながら、伝い歩きで、レミリアは部屋の外に出た。


アリアの魔力の気配を追うと、居間に出た。アリアは、子供達と一緒にお昼の休憩中だった。

レミリアは、「お母さん…」と、かすれた声で呼びかける。

娘が今にも倒れそうな様子で現れたので、アリアは驚いて、飲みかけのグラスをテーブルに置くと、レミリアに駆け寄って体を支えた。

「レミー。そんなフラフラで…起きて来ちゃだめじゃない」と、アリアは言いながら、治癒の力を宿した手で、娘の額に触れる。

「お母さん…。アベルは…どうなったの? ラナは?」と、途切れ途切れにレミリアは言う。

「それがね…。すっかり仲良しになってるのよ」と、アリアは面白おかしそうに言った。

アリアの話では、「部屋を借りたお礼に、家の掃除でもする」とラナが言ったら、アベルは疑う様子もなく「分かった」と言って、掃除道具をラナに渡し、屋敷を後にした。

ラナが丸一日がかりで、大きな屋敷の各部屋を掃除していると、アベルが、町から持って来たらしい食料を、ラナに差し出した。

ラナが、「私は普通の食事はとれないんだ」と説明すると、アベルが「『闇の血』を引いてるの?」と聞いてきたので、そうだと言うことにしておいたらしい。

それから、アベルはラナに「友達」を紹介した。一匹の子猫と、グランの研究所から逃げ出した実験体である、キメラ達だ。

「妙な格好してるけど、みんな優しい子達だよ?」と、アベルは言っていたと言う。

アベルは、その屋敷の中に畑を作ろうとしていた。キメラ達も手伝って、屋敷の芝生を掘り起こす作業をしていた。

ラナもその作業を手伝い、分厚い芝生の根を軽く掘り返すと、「そんな細い腕しているのに、すごい力だね」と、アベルに言われてひやりとしたそうだ。

一緒に食事はとれないが、アベルが夕飯に缶詰を食べている間、ラナはさりげなくアベルに問いかけた。

「町に危険な連中がいるそうだが、お前は町に出かけて大丈夫なのか?」と。

アベルは、「うん。僕がちょっと怒ると、変な奴等はすぐ逃げちゃう」と答えたそうだ。

それから、話し相手に飢えていたアベルが、色んなお喋りをするのを、ラナは相づちを打ちながら聞いていた。


次の日、自分の寝室から起きてきたアベルが、妙にすっきりした顔をしていた。

「おはよう、ラナ」と、初めて欠伸混じりに声をかけてきたと言う。全く警戒心が観られない。

「なんだ。良い夢でも見たのか?」とラナが聞くと、「うん。なんか頭がすっきりした。ラナは、海って見たことある?」と聞き返してきた。

「映像なら見たことがある」とラナが言うと、「じゃ、僕と同じだ」とアベルは言って、にっこりと笑い、夢の中で見たことをラナに告げた。

自分の髪より少し色味のあるブロンドの、褐色の肌の女の人が、自分を真っ暗闇から海辺に連れて行ってくれたと。

「名前を聞いたはずなんだけど…なんて言ったっけなぁ…。レ、レ…だめだ。思い出せないや」

その通信を聞いて、レミリアは確信した。

私は「アベル」の心の底に触れたんだ。彼は、ずっと一人で真っ暗な「始まり」の場所から動けなかった。それに続く世界が、あまりにも悲惨だったために。

アベルの「心の闇」は、幼い心を守るための防御壁のようなものなのだ。戦場を見る時の恐怖心を、高揚感に変えることで、なんとか自分を保っている。

「アベル-F」は、意識を持ってから、わずか半年も生きていない。

レミリアは、この「幼き者」を救いたいと、心を新たにした。


ダンキスタンの町に、霧雨が降ってきた。その霧雨を浴びた感染者達が、一人また一人と倒れて行く。

ダンキスタンで生き残っていた実験体達も同様だ。崩れるように地面に伏し、眠りこんだ。

田舎に隠れていた未感染者達は、花の香りがする霧雨を手に受け、不思議な顔をしていた。

雲を纏って空を飛んでいたシェディは、薬液が入った機材の重さに歯を食いしばっていた。

「さすがに重いな…」と良いながら、ラナのデータに在った通りに機材を操り、雨雲の中に薬液を散布している。

それと同時に、ディオン山からミリィの「伝心」と「追跡」の魔力が届いた。

「シェディ君。その辺りはそんなもので良いわ」と言うミリィの声を聞いて、シェディは次のポイントへ「転移」した。

ミリィの「追跡」の魔力を通して、リッドの「時を送る力」が、実際の雲の中に広がる。

雨雲の中に薬液が浸透し、それはスコールのように降り注いだ。


畑仕事をしていたラナが湿度に気づき、「雨が降るようだな」と言った。

「みんな、早く屋敷に入って」と、アベルが実験体達に指示を出す。だが、霧雨を吸った実験体達は、意識を失って地面に倒れた。

「どうしたんだ?!」と、アベルは驚いて庭に走り出た。実験体と同じ変異を起こしている彼の体にも、薬液は有効だった。

霧雨を吸った途端、急激な眠気に襲われた。「なんだ…これ…」

倒れそうになったアベルの体を支え、ラナは彼を館の中へ運び込んだ。

手近な部屋の長椅子にアベルを寝かせると、ラナは「伝心」でアリアに呼びかけた。「実験体達が、意識を失ってる」

アリアの「伝心」が届いた。「何か始まったようね…。未感染者への影響は?」

ラナは、体についた霧雨をなめている子猫を見て、「未感染の者には影響しないらしい」と言い、視線を遠くに向けて、町の様子を「透視」した。

「通常の感染者にも影響があるようだ。みんな、意識を失って行ってる」

そう心の声を送ると、アリアを遮るようにレミリアの意識がラナに干渉してきた。

ラナは、レミリアに操られるように、アベルの手を握った。

「アベル。これから、あなたは生まれ変わるの」と、ラナはレミリアの声で言った。「怖くないわ。始まりの場所が変わるだけ」

既に視力を失っているアベルは、ラナ以外の声がしたので、「あなた、誰?」と聞いた。

「レミリアよ。海の見える場所で待ってて。必ず、逢いに行くから」

アベルの脳裏に、今朝見た夢のことが思い出された。「ああ…。レミー。君だったのか…」

そう呟いて、アベルは意識を失った。