大地の癌 Ⅰ 3

ウィンダーグ家の子供部屋のベッドで、長い黒髪の少女―アンジェ―が眠っている。

「居ない子居ない子。お空に帰れ。良い子じゃ無いならお外に帰れ」と、何かがアンジェの耳元に囁く。

しばらく寝返りを打っていたが、あまりにも囁きがうるさいので、アンジェは目を覚ました。「誰?」と、目をしぱしぱさせながら、周りを見回して言う。

「居ない子。居ない子。お空に帰れ」と、囁きは繰り返す。「良い子じゃ無いならお外に帰れ」

アンジェは怖くなり、ブランケットを頭まで被ってベッドの中で丸まった。

「菫の眼はもう開かない。菫の眼はもう開かない」と、ブランケット越しに囁きが聞こえる。「ずーっとねんねだ。お前が来なきゃ。ずーっとねんねだ。お前が居なきゃ」

アンジェは、その囁きが、自分を怖がらせようとしているわけではないと気づいた。

「アンジェ。君の血には、特別な力がある。人を不幸にもするし、幸福にもする力が」

かつてリム・フェイド博士から聞いた言葉が、アンジェの頭の中に浮かぶ。アンジェはブランケットをはねのけ、ベッドの上に立って「囁き」に尋ねかけた。

「何が起こるの? 菫の眼って…レミー? レミリアの事?」

アンジェがそう言うと、囁きは「この子は良い子だ。頭の良い子だ」と言い、「キャンバスを全部めくってごらん」と告げて、アンジェの部屋から消えた。


アンジェは、電池式のランプを手に取ると、シェディの絵が置いてあるアトリエに向かった。

暗い廊下を歩いて行くと、陰気な執事と出くわした。アンジェは、「シェディのアトリエの鍵を開けて」と頼んだ。

執事は特に何も問いただしはせず、保管庫から鍵を持ってくると、アトリエである、屋敷の北側のサンルームへの入り口を解錠した。

ランプ明かりを頼りに、アンジェはサンルームの日の当たらない壁側に置かれている「リオナ」の絵のキャンバスを端から順にめくって行った。

数枚めくって行くうちに、カビのような汚れが、「リオナ」の絵のあちこちについているのが分かった。

ある絵では、カビは「リオナ」の両肩に乗っていた。また、ある絵ではカビは「リオナ」の両目をふさいでいた。

一番左端にあった絵をめくると、カビは「リオナ」の全身にまとわりつき、その横顔は鼻を突き出し耳を立たせた獣のように見えた。

「狼が…来る」と言って、アンジェはしばらく呆然とその絵を見つめた。

「アンジェ。何してるの?」と、シェディの寝ぼけた声が聞こえた。大人の持てる大型のランプが、アトリエを照らし出す。「勝手にアトリエに入っちゃだめって言ってるだろ?」

「シェディ。この絵、観て」と言って、アンジェは子供が持つには少し大きいキャンバスを指さす。

「あれ? こんな黒い絵あったっけ?」と言って、シェディは自分の持ってきたランプでキャンバスを照らす。「うわー。これ、カビだ。散々だなぁ。此処までカビてちゃ、捨てるしか…」

「この影の形、よく観てってば!」と、アンジェは言う。「狼に見えない?」

「狼? うーん。…見えなくはないなぁ」と言って、シェディは考え込む。「でも、偶然だよ。怖い狼達は、みんな『消毒』しちゃったんだから」と言って、シェディはアンジェをなだめようとした。

「もし、生き残ってる狼が居たら?」と、アンジェ。「『完全な安全』なんて、ないんだよ?」

妙に大人びた義妹の言葉に、シェディはきょとんとしてから、少し顔を曇らせ、「父さんに話してみよう」と言って、そのキャンバスを持ってアンジェと共にルディを探しに行った。


金色の髪の少女は、人気のない路地にリッドが下りてくると、その後に着いてきた。

明かりも少なく、酔いつぶれている浮浪者の居る通りだ。

「お嬢ちゃん。物見遊山でも、こんな通りに入ってくるもんじゃねーぜ?」と言って、リッドはコートのスリットの中に羽をしまい、少女を追い立てるように表通りに移動した。

車はライトを光らせ、飲み屋と賭場は明かりを灯し、酔っ払った者達が大声で騒ぎながら歩いている。

金糸の髪にイーブルアイの少女は、リッドに辛うじて聞こえる程度の声で、「あなた、こんな所でうろうろしてて良いの?」と聞いてきた。

「そう言われてもな。旅歩くのは俺の日課なんだよ」と言って、リッドは赤毛頭をガシガシ掻く。

「あなたの身内…子供か、孫くらいの人が、あなたの助けを求めてる」と、少女は言う。「今は何も言わないかも知れない。だけど、あなたの力が必要になる時が来る。すぐにその人達の所へ」

そう言われて、リッドは何故この少女を見た時、レミリアを思い出したのかが分かった。この少女も、「予言」の能力を持っているのだ。

「そうか」とリッドは言って、「あんたの名前は? お嬢ちゃん」と聞いた。

「パトリシア」と少女は答える。

「俺はリッド。また逢うようだったら覚えておいてくれ。じゃぁな、パティ」と言って、リッドは再び暗い路地に入り、そこから明かりのない宙に飛翔した。

パトリシアはその背を見送り、イーブルアイを隠して、夜でも賑わう人ごみに紛れた。


3皿目のレバーパイを勧められ、ナイトはさすがに「もう結構」と断った。牛の血管の塊を焼いたものが、胃袋の中から食道を駆けあがらんばかりである。

「それじゃ、お話とやらを伺いましょうか」と、カトリーナ・バーバリーは言う。「その前にお茶でも飲む?」

「お願いする」と言って、ナイトは茶を待った。

一度死んで黄泉から帰ってきたナイトの体は、生物としては機能していない。今食べたものや飲んだものは、後で吐き出さなければならない。内臓の中で腐らないうちに。

カトリーナが女中にお茶の指示を出していると、ナイトはふと鏡が気になった。

パンパネラは鏡に映らないと言われているが、自分達の姿はしっかり映っている。それは、肉体があり光を反射するのだから、鏡に映って当然なのだ。

そして、そこに「居ないもの」までが映りこんでいる。青白い、執事服を着たウサギの霊体。

ナイトは古い記憶を思い出し、そのウサギが、アリア・フェレオに仕えている執事のルルゴと言うウサギであることが分かった。

ウサギは、何かに意識を乗っ取られているらしく、白目をむいている。そして、震える前足で、ワインの瓶を倒した。

赤ワインが零れ、その周りに居た者達は「何やってるんだ」「いや、俺じゃないぞ」「勝手に倒れたんだ」等と言い合っていた。

ナイトは、そのワインから一筋の赤い雫が伸び、ある紋章を描いたのが分かった。

「転生」の紋章。メディウムが降霊術を行なう時に使う印の一種だ。

その紋章は、他の者が見つける前に唯のワインの雫に戻った。