テイルの腕の傷を調べた後、アリアの表情が硬くなった。そして、夫に聞く。「テイル。一つ教えて。その花は、何処に咲いてたの?」
テイルは、ディオン山のベルクチュア側を、山小屋から2kmほど離れた場所だと告げた。
「麓じゃなかっただけマシかしら…。良い、テイル?」と前置きし、アリアは説明した。
その花を生んだ物は、「大地の癌」と呼ばれる生物兵器で、その生物兵器は、朽ちる前を花に擬態した株を残すのだと。
「その花に『攻撃力』があるのは初めて知ったわ。攻撃と言うか…ウィルスを『遺伝』させる力ね。テイル、あなたは、腕にウェアウルフの卵を産み付けられたの」
その言葉を聞いて、テイルも表情を厳しくした。そして言う。「どうする? この腕、切り落とすだけでなんとかなるか?」
「待って。落ち着いて考えましょう」
アリアは、真剣な目をして言う。
「ベルクチュアの事件では、ミリィの作った薬が強力な効果を発揮した。その薬と同じものを手に入れられれば、ウィルスを除菌する事もできるかも」
「俺から他人に感染する危険は?」と、テイルは聞く。
「それはまだ分からない。今の所、私は自分の魔力に『闇の気配』が混ざって無い事は分かる。私が発症しない限り、他人に感染することもないはずよ」
「でも、此処に来るまで、町の中を歩いたよね…?」と、ハラハラしながらエッジが聞く。「伝染病って事は…。空気感染はするの?」
「人間があのウイルスに感染したときは、主に飛沫と吐息が感染ルートだった。でも、本来ウェアウルフ化は血液にも病原体を持つ病だから、血液からの接触感染もあったわ」
「血の付いた手で誰かに触ったことは…無い、と言いたいが」と、テイルは考える。「駅員に切符を切ってもらう時、どっちの手を使ったか覚えてないな」
「どっちの手を使っても同じよ。あなた、傷の出来た腕を掻いたでしょ? 爪の中に血がついてる」
アリアはそう言ってため息をつく。
「『花』の持ってたウィルスの感染力が、弱い事を祈るしかないわね。まず、ミリィの所に行ってみましょ」
オレンジ色に見える赤みのある明るいブラウンの髪と、波立つ海のような眼をした細身の女性が、浜辺を散歩している。
深いブラウンの魔術着を着て、魔力のこもった金色のイヤリングをつけている。どうやら、魔術と所縁のある者のようだ。
かつて、突然変異型ウェアウルフ・ウィルスの保菌者達が、「城」と呼び、身を寄せ合って住まいとしていた灯台が、近くに見える。
女性は、青い屋根と白い壁の大きな灯台を見上げ、その周りをぐるりと一周した。夕陽に染まった風景の中で、白い灯台はくっきりとした影をのばしている。
ずっと地面を見て歩いていた女性は、その灯台の周りに一定間隔で丸い白い石が8つ置かれているのに気付いた。
普通の人間から見たら、単に浜辺に石が落ちているだけに見えるだろう。だが、女性が目に魔力を宿して霊視すると、その白い石に誰かの魔力の名残があるのが分かった。
今にも消えそうな青い粉のような光を放っている。そしてその光は、灯台の中に吸い込まれて行って居るように見えた。
「誰かいるよ。誰かいるよ」と、女性の耳に何者かの声が聞こえた。「昔の人だ。あれはとっくに昔の人だ」
「囁き」だと、女性は理解し、その声に耳を澄ませた。
「だけどまだ眠ってる。だけどここで眠ってる」
「魂はとっくに旅に出たのに」
「だから起こされるのを望んでる」
「彼女はずっと待っていた」
「あなたが来るのを待っていた」
「さぁ、階段を上がろう」
囁きに導かれ、女性は鍵の壊れていた灯台の扉を開けた。
壁に沿うように上に続いている階段を、一足、一足と進んで行く。
途中でハッとした。いやに黒い石で出来ていると思ったら、それはすっかり酸化しきった血の跡だったのだ。大量の血が撒かれた跡。
此処で何があったのだろう、そう思いながら、海のような眼の女性は歩を進めた。
行き着いた先は、灯台の最上階だった。西日もだいぶ傾き、宙の半分は紺色になっている。光を飛ばして回転するはずの、灯台の仕掛けは、動く気配もない。電力が供給されていないのだ。
その、無用になった仕掛けの「中」に、その人は居た。
髪をフードで隠し、目を閉じて壁に寄りかかるように眠っている、17歳ほどの、少女と言っても良いほどの人物だった。
海の瞳をした女性は、魔力のこもった声で、その少女に話しかけた。「起きて。ねぇ、起きて。もう、舟を待たなくても良いの」
物質と空間の間に寄りかかっていた少女は、ゆっくりと目を開けた。衣服の色、肌の色、瞳の色、何一つわからない。そこにあるのは、少女の「映し影」だけだ。
少女が唇を動かした。「あなたは?」と、声ではない声が、女性の耳に聞こえる。
「名前は、リト・ロイド。あなたの名前は?」と、海の眼をした女性は聞いた。
「オルガ・ガネーシヤ」と、少女は答えた。「舟…。そうだ。舟に乗らないと」
「いいの。もう良いのよ」と、リトは応える。「此処には、もう誰も居ない。あなたは、もう自由になって良いの。あなたは十分に働いたわ」
「私は…」そう言って、少女の影は、自分の閉じ込められている「物質」の内側に触れた。「此処には…誰も…いない」
「あなたには、生きていたときの記憶しかないのね」と、リトは語りかける。「大丈夫よ。あなたは、守り切ったの。みんな、安心して此処を離れたの。だから、あなたも」
「ああ…そうか…」と、少女はぼんやりしたように目を瞬き、空間の表面に手をついてこう言った。「私は、鎖…。大地と魂をつなぐ…魔力」
リトは、危険なのも忘れて、物質と空間の表面に、少女と同じく手をついた。「目を閉じないで。もうすぐ宙が見える。あなたは、月に行くの。そこで、新しい力として生まれ変わるの」
「そうか」と、少女は言った。そして、うっすらとほほ笑み、「だが、まだやることがある。連れて行ってくれ、リト」と呟くと、リトの手の平の中に姿を消した。
シェディの描く絵に変化が現れた。
その様子にいち早く気づいたのは、誰でも無くレミリアだった。モデルを務めていても、シェディの視線に以前のような集中力が無い。
若き画家は、温かい昼間には、絵を描きながらうつらうつらと居眠りをしてる始末だった。
「おーい。それじゃ、天下は取れないぞー」とレミリアが声をかけても、目を開けない。
目を開けない画家の前でポーズを決めてても仕方ない。レミリアは、暇つぶしにアトリエの中を歩き回り、「カビが生えて廃棄予定」だと言うキャンバスの横にあったクロッキー帳を観た。
最初の方には、ずっと以前に描いた「リオナ」とアンジェに似た幼子の絵。
中間地点は、絵を飾るための背景の習作が続き、不意に幼い少女の肖像…鉛筆で描かれているが、肖像と言っても良いくらい緻密に描きこまれたアンジェそっくりの少女の姿が現れた。
「ははーん」と言って、レミリアはにやっと笑った。リッドそっくりの表情で。「これはこれは、画家様は現実の恋に視線を向け始めたのでございますね」
パンッと音を立ててクロッキー帳を閉じると、シェディが音にびっくりしたように飛び起きた。「レ、レミー。なんで移動してるの?」
「だって、眠ってる人の前でポーズとってどうするの? それに、君が描きたいのは、もう『リオナ』じゃないんでしょ?」と言って、レミリアはニヤニヤしている。
シェディが事態を理解する前に、レミリアはクロッキー帳を広げて見せた。アンジェが描かれているページが、パラパラとめくられる。「ついに夢から目覚めたのかい? このロリコン」
「そ、それ…それは…」
「お。否定するのか? 目の中に映った像まで描くほど熱中できるモデルを見つけてるのに?」
「それはその…えーと…」
「それとも、これをアンジェじゃないとでも言うのかい?」
「いや…違わ…なく…ないけど」
シェディは既に語彙がおかしくなっている。レミリアは、つくづくとアンジェの肖像を眺め、シェディにこう告げた。
「昔から思ってたけど、シェディ、君はやっぱりロリータコンプレックスを持っているんだよ。14の私にモデルの依頼したくらいだもんね」
「えっと…ごめん」と、何故かシェディは謝る。
「おや? 謝らなきゃならない後ろ暗い事でもあるのかい?」
レミリアが学者のように問い詰めると、「その…無理にモデルやらせて…。僕も、熱中できなくなってるのは気づいてたんだけど…」と、シェディはしどろもどろに言う。
「お? 『リオナ』を諦めきれなかったのか?」
「うん」
「昔の女は忘れろ。それより、今からアンジェをモデルに次のコンクールを目指せ。そして、賞金を勝ち取って、外国にでも行ってこい」
レミリアは男前に言う。
「そうすれば、夢の『遠い世界への旅』が現実になるんだぞ? 楽しい事ばっかりじゃないかも知れないけどね。さぁ、頑張れ、お姫様を呼んできてあげるから」
レミリアは、鼻歌まじりにアトリエを去り、「アンジェー? どこー?」と、廊下を歩きながら呼びかけに行く。
シェディは頭を抱えて髪を掻きまわし、うなだれて、「ロリコン…だよなぁ…」と、ようやく自覚した。
