ネシスの気配がどこか遠くに去ったのを察し、ネイクはわずかに残っている正常な思考の中で安堵した。
しかし、ひどい飢えが、ネイクの思考を乗っ取ろうとする。
ネシスの家にあった冷蔵庫を開け、ハムの塊にかぶりついた。塩気が少し邪魔だったが、結い紐をほどいてハムの塊を丸ごと平らげた。
少し落ち着いたと思って、ネイクは口の中の塩気を薄めようと、水を求めて家の中を探し回った。
そう言えば、ネシスの家には地下に食糧庫があるんだった。
そう思い出したネイクは、フラフラと地下に向かった。右目と左目で、観える像が違うので、途中で何回か壁に体をぶつけ、地下の階段には恐る恐ると足を運んだ。
水の入ったペットボトルがあった。ネイクは、それを左手でつかみ取り、右手でキャップを開けようとして、驚いた。
右手が、人の手の形を留めたまま、狼の毛のようなもので覆われている。そして、指先の爪はすっかり変形し、カギ爪のようになっていた。
ネイクは、水を飲むのも忘れて、悲鳴を上げた。そして、ネシスの家の洗面台に駆け付けた。月明かりの中で、鏡を観る。
喉元と右頬の一部が、獣の毛でおおわれている。恐る恐るシャツのボタンをはずして、肩を確かめると、すっかり獣の毛が覆いつくしていた。
左目は人間の形は無くし、完全に狼と同じ目をしている。窓から差し込む月光を返して緑色に光っていた。
口の中も何かおかしい。右頬の内側が痛い。恐怖に困惑しながら鏡の前で口を開けると、口の右側は肉食獣の牙を備えている。
少しずつ、獣人化が進んでいる。
こんな姿を観られたら、きっと誰かに殺されてしまう。
ネイクは絶望感に襲われた。そして、さっきハムを丸ごと食べたはずなのに、もう胃袋が空腹の音を鳴らし始める。
何より、「肉と骨を噛み砕きたい」と言う欲求が湧く。
「変化」することにより、よりウェアウルフ・ウィルスにコントロールされやすくなっているのだ。
ネイクは、助けを求めたかった。だが、その心は「食べ物を求める欲求」に変換されて行く。
「ネシス…。ネシスを…た、た、た、食べなきゃ」と、ウィルスに操られたネイクは呟いた。
ネイクのいる方向を見定めたテティスは、その気配が何処に行こうとしているのかを追った。
今は、ネシスの家の中にいる。その気配は家を離れ、においを追うように広場に向かって来ている。
「こりゃー。直接対決になるのか?」と、テティスは頭の中で呟いた。出来れば、ネシスに「友人を殺す」所は見せたくない。
「ネシス。クラリス像から離れるなよ」と言って、テティスは小路を入るところまで広場を走った。
走っておいて正解だった。ネイクが、ネシスの家の方向から、同じ小路に入ってきたのだ。
「ネイク。意識はあるか?」と、テティスが呼び掛ける。
「ガナード…さん。ネシス…ネシスを…食べさせて」と、意識も朦朧とした風に、ネイクは言う。最早、正気を保つのも限界を超えたらしい。
「その願いは叶えがたい」と、テティスはネイクに呼びかけた。なるべく、意思の疎通ができる程度まで、ネイクの意識を覚醒させたかった。
呪術を行なう時は、「本人の同意」が無ければ、一方的に「攻撃を仕掛ける」のと同じ効果を出してしまう。
その時のショックで、ネイクが完全に「人間としての意思」を失ってしまうことも考えられる。
「ネイク。お前が感染したウィルスの影響力は弱いはずだ。俺の質問に答えてくれ」
テティスは呼びかけた。
「これから、お前は眠りに就く。起きられるのが何日後か、何百年後かは分からない。覚悟は?」
ネイクは、真っ青な顔を引きつらせ、「ネシスを…」と、呟いた。「た…食べ…。た、た、助け…て」
ネイクが答えられる、精一杯の意志を見せたが、「呪術」に同意したことにはならない。
一方的に術をかけるしかないか、とテティスが構えた時、ネイクの頭上に、魔力を持った翡翠が、緑色の光を放ちながら現れた。
そして、その翡翠をネイクに渡した魔女の影も。サファイアのような眼をした、亜麻色の髪の魔女の姿は、闇の中に半透明の光を発している。
ネイクとテティスがその魔女の影を見ると同時に、魔女は両手の間で練った魔力を、宙に浮いている翡翠に注ぎ込んだ。
翡翠から発された荒々しい緑色の光が、ネイクの足元に六芒星を描く。その六芒星を基軸にした複雑な魔法陣がネイクの足元に浮かび上がり、「監獄の結界」が起動した。
月の魔力が遮断され、ネイクは一時的に正常な意識を取り戻した。
ネイクの、人間のままの右目から、涙がこぼれた。泣き崩れながら、避けられなかった不幸を呪った。
ついさっきまで、恐ろしい思考に取りつかれていたのを、彼女ははっきりと覚えていたのだ。
「落ち着いて、ネイク」と、魔女の影が言う。「今は、まだ、あなたを救うことは出来ない。でも、あなたを見殺しにはしない」
「でも、私は…」と言いかけたが、ネイクは歯がゆさに言葉が続かない。「ネシスを…友達を…」
「あなたの思考をおかしくしているのは、感染したウィルスの影響よ。あなたの本当の心じゃないの」と、魔女は言う。「気をしっかり持って」
「何処の誰だか知らないが、大した魔力だ」と、テティスは言い、もう一度ネイクに呼びかけた。「ネイク。『眠る』覚悟はあるか?」
ネイクは身を起こし、テティスほうを向いて答えた。「死に近い眠りなんて、怖くない。どうか、この意識が覚めているうちに」
「よし。それじゃぁ、その命、預からせてもらう」と言う言葉と同時に、呪術師は術を発動した。
ネイクと同じ、アンバーの瞳が、「力」を持って発光する。
イーブルアイに似た力を持つようになったネイクの眼に、その呪術師の「力」が見えた。
それは、「呪力」であるにもかかわらず、禍々しい気配はなく、まるで聖女クラリスが使っていた力を想像させるような、精練されたエネルギーだった。
ネイクは目を閉じた。自分の身の周りを、エネルギーが包み込んだのが分かった。とても暖かい、春の庭で眠りこむような安らかさと共に、少女は深い眠りに就いた。
それを確認し、魔女の影は言う。「しばらく、あなたにその子を任せる。『解決策』が仕上がるのを待って。しばらく、この石を持ってて」
テティスが、答えるように片手をのばすと、宙に浮いていた翡翠が、テティスの手の平に転がった。
視線を戻すと、既に魔女の影は消えていた。
クラリス像の周りに作った結界の中で待っていたネシスは、兄貴分が赤い小さないガラス玉のような物を持って来たのを見て、「それが、『ネイク』なの?」と聞いた。
「ああ。俺の力じゃ、周りにウィルスをまき散らさない方法は、これしかない」
そう言って、テティスは赤いグラスボールを、ネシスの目線に近づけた。
ネシスにも、グラスボールの中で丸まって眠っている「小さなネイク」が見えた。
テティスは言う。
「意識はないが、生きている。現状維持くらいはできるから、病は進行しない。お前の言ってた、『魔女のお姉さん』とやらが、解決策を探してくれるそうだ。それまで、俺が預かる」
それから、テティスは「しかし、いや~な予感がするな」と言って、自分の後ろを振り返った。「ネイク、今日は寺院に泊めてもらえ。明日、家全体に『浄化』の術をかけろ」
「呪術の中には、『浄化』にあたる術はないの?」と、ネシス。
「無い」と、テティスは言い切る。「本来が、誰かを『攻撃』するための術だからな。『浄化』と似たようなものだと『降臨』の術があるが、短く言うと、あんまり掃除と同じ感覚で使える術じゃない」
「分かった。お坊さんから、メディウムを紹介してもらう」
そう言って、ネシスはクラリス像の前から立ち上がった。「もう、此処から出ても良いでしょ?」と、クラリス像の足元に書かれた2重の円を指さす。
「おう。その代わり、これ持っておけ」
と言って、テティスは精霊の紋章を模ったペンダントをネシスに渡した。
「何かあったら、これをつけてクラリス像の前まで逃げろ。一度刻んだ結界を、再起動出来る。俺が直接『飛んで』来るより、安全で確実だ」
「分かった。テティス、ネイクをお願い」
「悪いようにはねーよ。じゃーな」と言って、テティスはフォルルの村から、自宅のあるソルエの街の入り口まで「転移」した。
ソルエの街の酒場で、「郵便配達」を請け負ってた魔術師の弟子、ルイスが、書類と仕事代を引き変えてた。
「すごいや。3700ガルだって」と、ルイスは酒場から出てきて、道連れの大人2人に声をかける。「あの魔術師の人、すごく気前良いね」
「道中の移動代を含めて、だろ?」と、女剣士ケーナは然して嬉しくも無さそう言う。「実益だけを考えたら、妥当な金額だ」
「そっかぁ…」と、まだ料金の相場が分からない魔術師の弟子は口をとがらせる。
「今日はもう宿を探そう」と、魔術師クエルが言う。「移動だけでくたくただ」
3人は、ソルエの町の一角にある、そこそこ小奇麗な宿を選んだ。
デュルエーナにある、カテスの町で、深夜、空中庭園の手入れをしている者が居る。見た目は30代ほどの青年だ。柔らかい茶色の髪を長くのばし、首筋辺りの位置で一束に結っている。
その建物の入り口には、「ロドスキー事務所」「悪霊にお困りの方はこの番号まで」と、事務所の電話番号が書かれている。
空中庭園で育てられているのは主にバラの花で、所々に気まぐれ程度の香草も栽培されている。
誰かの「電話」の気配がして、青年は遠隔的に事務所内にある電話の受話器を取った。
「はい。ポール・ロドスキー事務所ですが」と、魔力を持った声を電話に飛ばすと、「もしもし。ナイト・ウィンダーグだ」と、青年の見知った声が耳元に聞こえてくる。
「なんだ。友人。これは久しぶりだな」と、ポールは声を明るくする。「何かまた困ったことでもあったのかい?」
「ああ。悪霊に関することだ」と言って、電話の主はエクソシストに事の顛末を手短に伝えた。
「総括すると、古代王の霊に狙われてるって事か?」と、ポールは話をまとめる。
「そうなる。昼間に親戚の娘が調べてくれたんだが、古代王の名前はフェリモ。近年発掘されたデュルエーナの古代遺跡に居た霊だそうだ」
「古代遺跡…となると、恐らく霊体は魔力の供給源からは離れられない可能性が大きいんだが、その親戚の娘さんが調べた時はどうだった?」
「魔力は残っていたが、本体は居なかったそうだ。それから、ニュースでは古代王の墓から遺体が『盗み出された』と報じられている」
「推理は必要なさそうだな」と、ポールは答えた。「近日中に、そちらへ伺っても良いか?」
「ああ。是非頼む。電話じゃ伝えにくい情報もあるのでね」と、友人は言う。
「承知した。今回は仕事として引き受けるので、正規の料金を請求するが、お前の予算の都合は?」
「先月、株の配当金が入ったので、少しは余裕がある」
「うーん。なんだか吹っかけたくなる言葉だなぁ…。いやいや、冗談だよ。それじゃ…明日は予定が入ってるから、2日後の午後に伺う」
了承の返事が聞こえてきたところで、挨拶を返し、ポール・ロドスキーは電話をそっと元に戻した。
