うつろの影

地面から細かい砂が舞い上がり、木々の枝がビシビシと音を立てながら風に耐えている。

修業中を示す、黒いローブを着た一人の魔女が、その強風の森の中を岬に向かって歩いていた。

「エリック。道は覚えてる?」と、魔女が何もない空間に声をかけた。

その途端、空中に、青白く光る島国の地図が浮かび上がった。その地図は魔女のいる位置を中心に細かく映し出され、これから向かう岬の方角を詳しく示した。

どうやら、この魔女は精霊を連れているらしい。

「道は間違えてないわね」魔女がそう言った途端、生ぬるい突風が彼女のローブのフードをひっくり返した。

柔らかな長い栗色の髪が風になびき、魔女はフードに隠していたアメジスト色の目をしかめた。

「ああ、もう嫌になっちゃう」と言って、魔女はぼさぼさになった髪をローブの襟もとに押し込んだ。

「リオナ。この先に誰かいる」魔女の耳に精霊の声が聞こえた。彼女は左手に杖をつきながら、人気のない岬への道を慎重に進んで行った。


「お嬢さん。こんな日に、こんなところに、なんの用だね?」と、老いた者の声がした。

森の中を見ると、木々の影に隠れて風を避けながら、一人の老人がリオナを観察している。

違和感を覚えながら、リオナは「ちょっとした野暮用よ」と答えた。

「この辺りは化け物が出るからね」と、老人は言った。「十分注意しなさい。十分にね」

「そう」とだけ答え、リオナは先を急いだ。

岬が見える距離になった。リオナはまた精霊を呼び出し、地図を確かめた。

左に曲がる道を進み、森の出口に来た。崖の上の目の前に、古い巨石を積み重ねた、ストーンヘンジが広がる。

「此処に何があるの?」精霊エリックの声がした。

「古代魔術の名残ってものね」と言って、リオナはストーンヘンジを調べ始めた。

持ってきた本を広げようとすると、エリックがリオナの周りの風を弱めてくれた。

「間違いないわ」とリオナは言った。「この巨石群は、降霊の魔法陣を描いて並べられてる」

「死者を呼び出すの? なんのために?」とエリックが聞いてきた。

「世の中には、死んだ者をわざわざ呼び出して言葉が交わしたいって言う変わり者が居たって事よ」リオナはさらっと答えた。

「恐らく祭事の時に使われたって書いてある。あれは…」

リオナは、ストーンヘンジの中央に、閉じ切っていない空間の歪みを見つけた。

「異空間への入り口が、閉じ切ってない…何故? キルステン博士の調査では、祭事は1000年以上前から行なわれていないはずよ」

「誰かが霊魂を呼び出しているの?」エリックが緊張したような風に言った。「最近になっても?」

「このひずみ具合からすると、正式に呼び出してるってわけじゃなさそうだ」リオナは厳しい顔でそう言うと、辺りを一度見回した。

「誰かが観てる。エリック、一度ここを離れるわよ」

「分かった」と言って、透明な空気のようなエリックがリオナを包み込み、崖の上を飛び立った。


宿に着く前に激しい雨が降って来た。

ローブも髪も雨みずくになったリオナは、宿屋でチェックを済ませ、個室に着いたシャワールームに飛び込むと、鬱陶しい服を脱いで熱いシャワーを浴びた。

「エリック。あなたって、雨は避けられないの?」と、シャワーを浴びながらリオナは精霊に聞いた。

「海水をはじいたことはあるから、雨もはじけると思うけど…」と言って、エリックはシャワーのお湯に、かつて手だった霊体をあてた。

「シャワーははじけるわね」とリオナが言った。

「たぶん、飛びながらだと避けられないんだと思う」と、残念そうにエリックが言った。

「同時に2つのことが出来るようにならないとね」と少し厳しい条件を提示し、リオナはくすっと笑って言う。「じゃないと、私の助手は務まらないわよ?」

「頑張ってみるよ」エリックは言って、シャワールームから去ろうとすると、「あまり遠くに行かないように」と、先にリオナにくぎを刺された。


エリックはとりあえず宿屋の中の詳細を調べた。

2階建ての宿の1階のフロアにいるのは、談話室で写真を広げている客らしき者、カウンターから見える厨房で夕飯を調理中の宿の女将さん、フロントで客の帰りを待っている宿の旦那さん、自分のご飯をねだりに来た宿の白い猫だけだ。

それから、今エリックが移動してきた階段を上った先に、長い廊下の両脇に個室が設けられている。料理の数からして、恐らく客が1部屋につき1人は居るんだろう。

壁に、磨いた水晶が板状に貼り付けられ、天気予報のカレンダーが映し出されている。カレンダーは詳細で、天候だけでなく、その日の気温やいつ晴れるか、いつ雨が降るかまで書かれていた。

ここ数日は、雨が続くらしいなとエリックはそのカレンダーを見て思った。あの生ぬるい風は、嵐の前兆だ。こりゃ、しばらく宿屋に籠城かな? そう思って、リオナの部屋に戻った。


リオナはシャワーを終えてタオルで体を拭き、予備の肌着とローブに着替えると、雨みずくになったローブはシャワールームの中に通してある物干しにかけた。

「後で香水をかけておかないと」と独り言を言い、窓越しに荒れ始めた外の風の音を聞いた。

カーテンをめくると硝子の羽目殺しの窓に、自分の顔が映った。外は嵐が到来しつつあり、人影はない。そう思った瞬間、硝子に映った顔は悲痛な表情を浮かべている見知らぬ女性のものになった。

「助けて! 明日は私の番…!」と言う声がリオナの耳をよぎり、ガラスに映った女性の顔と一緒に消えた。


宿の夕飯を摂りながら、リオナは考えた。恐らく、あの女性の霊はあのストーンヘンジの中から、自分の身の危険を知らせに来たのだろう。

ストーンヘンジの空間のゆがみをこじあけて、何か霊達に悪さをしている者が居るのだ。

リオナは、食事を終えると部屋に戻って、着ている物と干している物、2着のローブに香水をかけた。淡い花の香りとともに、撥水の加工が施される。

エリックはリオナが考え込んでいる時の気配が分かるらしく、気にしないと言う風に宿の中をあちこち移動していた。

部屋に戻ってきたエリックに、リオナは言った。

「今晩のうちに、もう一度ストーンヘンジに行く」

「嵐が来るんだよ?!」と、エリックは驚いて言った。「それに、またあの森の中の道を通るんでしょ? 危険すぎるよ!」

「危険は承知の上よ。熊が出ようと狼が出ようと魔物が出ようと、出かけなくちゃならないの」とリオナは言った。「助けられる霊魂を無下には出来ない」

エリックも、かつてリオナが助けた霊魂の一人だ。エリックは考え込むように沈黙してから、「分かった。僕も行く」と答えた。「だけど、あの森は通らせない。危険すぎる」

「それじゃぁ、霊は…」

と言いかけ、リオナはあることに気づいた。ストーンヘンジへの複雑な道を通るのも、降霊の祭事のための一環だ。力を持った者があの道を順序の通りに通るたびに、空間に歪みが出来るのだ。

その歪んだ空間を無理にこじ開けて、何かをしている者が居たら。

「エリック。ありがと。おかげで一つ賢くなったわ」リオナは透明な鉱石をつけた杖を持つと、「じゃぁ、あなたの力で運んでくれる? 雨が避けられなくても構わない」と言った。

「出来る限りのことはするよ」とエリックは答えた。