うつろの影2

宿のルームキーをフロントに預けると、宿の旦那さんが不思議そうな顔をして聞いてきた。「こんな夜中に出かけるのかい? これから嵐が来るのに」

「ちょっと人助けにね」と言って、リオナはローブのフードを被り、微笑を返した。

精霊エリックは外に出たリオナを包み込むと、出来るだけ雨を浸透させないように飛び立った。

「さっきよりはマシね。小雨がパチパチあたるけど」とリオナは言った。

「今のところは、これが限界」とエリックは返した。

街の上を渡り、森の上空を抜けて崖の上に出た。ストーンヘンジが、淡く光っている。時々閃光を放ち、何か危険を告げようとしているようだ。

「誰がが悪さしてるのは確かね」と、リオナは言った。「エリック。ストーンヘンジの手前に下ろして」

エリックは言われたとおり、森の出口にあたるストーンヘンジの中にリオナを下した。

ストーンヘンジの中央で、何かが暴れている。

「くっそ! お前、今は森を通らなかったな!」と、その何かが叫んだ。

それは一頭のトロールだった。小山のような体格をして、巨大な腹を突き出し、腐ったような緑色の皮膚をしている。

トロールは、異空間へのひずみに手を突っ込んだまま、身動きが取れないでいる。

「千載一遇のチャンスね」と言って、リオナはストーンヘンジの縁の岩に、鉱石をつけた杖の先をあて、その杖に刻まれた鎮魂の歌を静かに唱えた。

異空間への歪みが、ギリギリとトロールの腕を絞り千切るように閉じて行った。

トロールの口ぎたない罵りと悲鳴が雨の中に響いた。

ぐしゃりと音を立て、異空間につっこんでいたトロールの腕はもぎ取られた。

痛みに悲鳴を上げるトロールは、すぐに怒りの形相を浮かべてリオナに向かって来た。

リオナはすぐに、呪符のタトゥーを施した右手でストーンヘンジの縁の岩に触れ、「解除せよ」と言う意味の言葉を唱えた。

途端に、青白い炎と光がストーンヘンジの内部を焼き尽くした。炎にあぶられ、トロールはストーンヘンジの中から逃れ出ようとした。だが、白い光に阻まれ巨石群の外に出ることが出来ない。

怪物は四方八方に逃げながら、段々と皮膚と肉が焼け付き、動けなくなって行った。ストーンヘンジの中央で、トロールは倒れた。まだ青白い炎は燃え続けている。

「リオナ。この炎はなんなの?」と、エリックが聞いてきた。

「遥か昔にメギドの炎と呼ばれていたものよ」とリオナは言った。「世界を粛正するために放たれた炎の一部。霊魂が逃げ出さないように、この魔法陣の中にはその炎を保存してあったの」

トロールの骸が完全に燃え尽きたのを見てから、リオナは再び縁の岩に右手を触れて、「沈黙せよ」と言う意味の言葉を唱えた。

炎と光が収まり、灰になったトロールの死骸が雨に打たれてぐちゃぐちゃになって行く。

エリックが雨を避けるためリオナを包んだ。エリックを通して、ストーンヘンジの中から声が聞こえた。

「ありがとう。名も知らぬ魔術師よ」異空間を取り仕切っていると思われる、高位の精霊の一種が姿を現した。異国の言葉のようだが、エリックを通して、リオナにもその言葉の意味は聞き取れた。

「扉を閉ざし、彼等の魂を救ってくれるものをずっと待っていた。あの魔物は霊魂を食らいに来ていたのだ。だが、私には、炎を蘇らせる権限は与えられていなかった」

高位の精霊がそう言うと、リオナの右手のタトゥーが、ぼんやりと光り、暖かい熱のようなエネルギーがリオナの体の中に注ぎ込まれてきた。

「私達からの礼だ。受け取ってくれ」と言った精霊の力の一部が、リオナの体に宿り、タトゥーの模様の中に、契約の印が新たに刻まれた。

高位の精霊が消えると、宿の窓ガラスに映った、女性の霊魂が一瞬リオナの目の前に現れた。「ありがとう」と、あの時聞こえた声がした。

恐らく、あの女性の霊は、魔法陣を離れると言う禁忌を破って、リオナに助けを求めに来たのだ。もしかしたら、二度と異空間に戻ることはできないかも知れない。

だが、今聞こえた声は、ひどく安らいだ穏やかなものだった。

「こんな時に、この杖が役に立てば良いのにね」リオナがそう言った途端、その意思に従うように杖の鉱石が光り出した。

嵐が止み、急に空が静かになった。波音が聞こえるようになり、一瞬音のしない落雷のような光が走った。

リオナとエリックは、その光の中を、あの女性の霊魂が微笑みながら昇って良くを見た。

「リオナ。見た?」と、エリックが呆気にとられたように聞いた。「あの人、天に選ばれたんだ。許されたんだよ!」

「そうみたいね」と言って、リオナは再び雨の降り始めた空を見上げた。


邪魔者のいなくなったストーンヘンジを、魔力の炎で照らしながらじっくり観察し、リオナは先人の調べ上げた情報を、一つ一つ確認して行った。

「キルステン博士にも、異空間を閉ざす方法は分からなかったみたいね」とリオナは言った。

「そりゃそうだよ。普通の人は、空を飛んでくるなんてできないもの」エリックがおかしそうにこたえた。「きっと、僕達がここに来たのも何かの導きだよ」

「あなたも相変わらず、船乗りくさいわね」とリオナは言うと、「調べることはこれで全部。一度、館に戻って熟考しなきゃ」と言って、リオナは帰る合図をした。

そこに、昨日の昼間、森で出会った老人が現れた。「気を付けろと言っただろう…」と、老人は言った。正確には、死んだ老人から皮と服を剥ぎ取り、身にまとっている何者かが。

「此処には、化け物が出ると…」と言った老人の口から、巨大なムカデのような魔物が現れた。

ムカデはリオナに食いつこうとしたが、エリックの力に跳ね返され、老人の皮ごと地面に転がった。

「よくも餌場を無くしてくれたな」と、ムカデは老人の皮から這い出ながら言った。「お前達は生きたまま食ってやる」

「黙って食われるほど、大人しい餌じゃないわよ」とリオナは言った。そして、右手を構えた。

「エリック。少し離れてて。まだ分からないから」と言うリオナの心の声を聞いて、エリックは察しがついた。

向かってくるムカデに向けて、リオナは引き裂くように右腕を振るった。ムカデの体内で霊魂が切り刻まれ、化け物は動きを止めて倒れ、溶解した。

「霊魂と器を消滅させるのか…大したパワーアップだわ」と呟き、リオナはエリックに「行きましょ」と声をかけた。