その箱の中 3

その晩、私はベッドに入ってからも、ずーっと昼間見た写真の事を考えていた。

ガナードが私を「学校」に通わせたがっていたのは、もしかしたら「能のある女」として育てたかったからではないか、自分の意識に「革命」をくれた女性のように、知的で才に溢れた女性に。

そんなことを言われた…わけではないが、私が「頭が良いか」と言ったら、「否」だ。

買い物ができる程度の「算術」と、ネイクから教えてもらった裁縫の技術はある。小さい頃にガナードが字を教えてくれたから、状況を知らせられるくらいの簡単な手紙の書き方も知ってる。

知力と発揮するところと言ったら、語らい小屋で聞いた薬草の知識と、聖女サランの物語に出てくる「元素とエネルギー」の知識だけ。

写真の女性を思い返し、何かを覚悟しているような、あんなにきりっとした表情は私にはできないことを実感する。

麺棒で退治できる男の子なんて怖くないけど、流石に以前この村を襲った「災害」の時は、逃げ回るしかなかった。

子供が「自分には分からない未知の者」に恐怖を抱くように、私も「訳の分からない流行病」に対しては、ガタガタ震えて恐怖を我慢するしかない。

そこで、私は気づいた。子供の頃の私は、「恐怖のある状態」が当たり前だと思ってた。だけど、今は「恐怖の無い状態」を当たり前だと思ってる。

そんな意識の変化が何処で生まれたのかは分からない。この、フォルルの村に住んだ13年で、私はようやく「恐怖」から抜け出せたのかもしれない。

食べ物と住む場所を与えて、ほとんど放っておいてくれた「お兄ちゃん」のおかげで。


髪の毛が伸びてきた。ずっとポニーテールにしていたけど、髪の長さは背中を通り越しつつある。

村の理髪店に行って、ちょっとだけ髪を切ることにした。

「結べる程度に切って下さい」と頼むと、理髪店の店主は、「折角伸ばしたんだから、少し個性的な髪型にしない?」と聞いてきた。

「個性的って言うと?」と尋ねると、「後ろを結べる分だけ残して、前髪を眉のあたりで揃えて、サイドの髪を下ろして頬を覆うようにカットするって言うのはどうかな?」と言ってきた。

それまで、オシャレってものには無関心だったけど、私はこの提案を承諾した。

出来上がった髪型を、最初に褒めてくれたのはネイクだった。

「可愛い! 全然違う人みたい」って。

まさか、自分が「可愛い」なんて言われる日が来るとは思わなかった。しかもネイクから。

私がその髪型にしてから、ネイクは、得意の裁縫で作ったワンピースを私にプレゼントしてくれた。

胸の下から切り返しのある、ドレスみたいなワンピースで、フリルとレースが満載だ。澄んだ空色の布で出来ていて、ネイクは「ネシスの髪の色に生えると思って」と言ってた。

「ありがとう」って言って受け取ったけど、着て行くところが無いなぁ。


新しい髪型にしてから、ガナードが良い顔をしない。

たまにフォルルの村に来たかと思えば、「素っ気ない表情」をして、吸えもしないパイプを燻らせている。パイプを吸いながらため息をつきそうになって、むせていた。

「おい。ネシス」って、まるでお兄ちゃんみたいに…いや、お兄ちゃんなんだけど、まるで「保護者」みたいに言い始めた。

「それは、お前もそこそこ年頃になってきたから、着飾りたかったり、ちょっと洒落っ気なんてついたりしてるのかもしれないが、サイドに垂らしてる髪をつかまれたら、ケンカに負けるぞ」と。

「何が言いたいの? 意味不明」って私が言い返すと、「お前こそ、どんな人生歩みたいんだ?」なんて聞いてくる。

どうやら、ガナードは髪型を変えただけで人生の分岐点に立たなければならないと思っているようだ。着飾りたいだの洒落っ気だの、年頃の女の子を分かったようなことを言っているが、全然分かってない。

この上に、ネイクのくれた服を着て見せたら、この人物は永久凍土の中に埋没するかもしれない。

つまりこの兄は、「麺棒振り回してたお前が、今更『可愛らしい女の子』に成れると思ってるのか?」と、言いたいのだろう。

「髪型が変わっただけで、私の人生は変わって無いわ」って返事をしたら、「女は髪の毛の差で人生が変わるんだよ」と言い出す。「ショートカットじゃない尼さんなんて居ないだろ?」

「何? じゃぁ、いっそ尼僧に成れば良いの?」って聞いたら、ガナードはしばらく考えるみたいに膝の上で指を叩いて、「それなら、麺棒振り回して良い寺院を探さないとな」って言ってくる。

私はもう訳が分からなかった。ガナードだって、たぶん自分が何を言ってるか分かってない。

これまでの私達の暮らしを考えてみると、ガナードはたぶん私に、「子供の頃のまんま変わらないでいてほしい」のだろう。

ガナード本人が、ずっと17歳くらいの外見で、声質で、でも頭の中だけは…セピア色になった写真を「遺影」だなんて呼ぶくらいには年を取っている。

きっと、私が「大人の女の人」になるのが、怖いんだ。いずれそれは、私がガナードより老いて、死んでしまうことを意味するから。

「ガナード。…ううん。テティス。私がもし、テティスより先に死んじゃっても、私の人生は私のものだし、テティスの人生はテティスのものなんだよ?」

私は、まるで私のほうが年上みたいなことを言った。

「それぞれ別人なんだから、夫々に変わって行く。でも、私は私の人生の中で、テティスに逢えたことはすごく嬉しい。私のお願いをいつも一番最初に叶えてくれたのは、テティスなんだもん。

私がいつか、テティスの年齢を追い越して、おばさんになって、おばあさんになって、死んじゃうと気が来ても、私のこの気持ちは変わらない。絶対に変えない。約束する。

だから、私がテティスの思うような『女の子』で居られなくても、がっかりしないでね。外見がどれだけ変わっても、私の中には麺棒振り回してた時代は存在するんだから」

「分かったよ」と言って、ガナードは燃え尽きても居ないパイプの灰を灰皿に明けた。「捨て猫かと思って拾ったが、ちゃんとした人間だったか」って言って。

どうやら、ガナードの中では、私の思考レベルは「生意気なペット」くらいの感覚だったと言う事がこのとき発覚した。

ムカッときた私は、キッチンから麺棒を取ってくると、真後ろからガナードの頭を力いっぱい殴りつけた。

ガナードは、しばらく頭を押さえてから、「お前、それ、辺りどころが悪いと死ぬやつだぞ!」と叫んだ。

「何処の、誰が、捨て猫だって?!」と言って、私は家中を逃げ回るガナードを追い回した。


数年後、私はようやく「ネイクの作ってくれたワンピースドレス」を着る機会があった。

ネイクが、村の外から来た男性と結婚式を挙げたんだ。

お年寄りは「村の娘を取られるなんて」って言って嘆いて、いつもネイクに因縁をつけていた男の子達は肩身を狭そうにしていた。

喜んでいたのは、私と、ネイクのお母さんくらい。ネイクのお父さんは、子供の頃に遭った災害で亡くなっていた。

ネイクはイジメられっ子だったけど、私よりずっと芯のしっかりした「女の人」だ。きっと、村を出ても幸せに暮らして行ける。

その頃の村には子供が居なかったから、ネイクの作ってくれた、空色のドレスを着た私が、彼女のベールを持つ役をやった。

花嫁の白いドレスを引き立たせるために、青いアクセサリーやリボンを使うことがあるけど、私は見事に「人型の引き立て役」を務め切った。

その時の写真がある。微笑んでるショートカットの花嫁がネイク、目を伏せて無表情を取り繕ってるベール持ちが私。


式が終わって、家に帰ると、ガナードが酔いつぶれていた。いつの間にリキュールを買い込んだのか知らないけど、部屋中が麦酒くさい。

私はウキウキワクワクが一気に減少して、ソファで眠りこけてるガナードの頭を、新聞紙を丸めたもので軽く叩いた。

ガナードは飛び起きて、頭をさすった。私に散々追い回された一件から、ガナードは丸い棒状の物で殴られると警戒するようになっていた。

「テティス。何があったか知らないけど、空き缶はちゃんと分別して棄ててよね」と言うと、ガナードは「仏頂面」と言う表情で背中を丸めている。

「何? また、何か気に入らない事でもあるの?」と、私は優越感に浸りながら言った。「捨て猫が人間だった時より驚くことかしら?」

この後、私は強烈に驚くことになる。

ガナードが、涙をにじませ、しゃっくりをあげて、子供みたいに泣き始めたんだ。だらだらと大粒の涙が、17歳くらいにしか見えない男の人の両頬を伝って、その服の胸に滴って行く。

「え? 何があったの? 何があったの? 一体、何があったの?」と、私は3回聞いた。

「ネシス~!」と言って、酒臭いガナードが私の首にかじり着いてくる。「お前は、お前だけは…嫁には行くな~!」

このおっさん、完璧に出来上がっている。

「嫁に行くなら相手が必要でしょ!」と言って、私はしがみついて来ようとする酔っ払いを振り払った。

アルコールの影響で腕力がヘロヘロのガナードは、簡単に床に頽れてしまうと、そのまま泣きじゃくっている。

酔っ払うと口が軽くなるほうだとは知っていたが、アルコールが一定量を超えると、酒乱になるらしい。

そもそも、酒乱になるほどよく飲んだものだ。この村では珍しくて価格の高い、麦酒と言うものを。