その箱の中 4

翌朝、酔いも覚めたであろうガナードが、悪びれた風もなく居間で紅茶をすすっていた。

酒乱の割には、二日酔いにはならないほうらしい。

「よぉ、兄貴。昨日の兄貴の無様な姿は覚えていやすかい?」と聞いてやると、「覚えてる。俺も、なんであんなに泣けたのかが分からねーんだよな」と言う。

「酒の勢いってやつですかい?」と再び聞くと、「昨日、隣の家のインコに雛が生まれたんだ」と言い出した。

「はぁ?」って聞き返したら、「いや、ちっせぇ雛でさ、ちびの癖にいっちょ前に鳴こうとしてんだよ。それ観てたら、なんか無性にやるせなくなってきて…」

話を纏めると、妹の友達の結婚式の日に隣の家のインコの雛が生まれたからとても悲しくなった。そして自棄酒かっ喰らって泣き伏した、と言うことだ。

私は、この男を、窓から放り投げたい気分になった。


私の21歳の誕生日。正確には、私が18年前に拾われた日。私達は、この日を「一応誕生日」として祝う。

確かに、私の人生は、あの日、餓死しないうちにガナードに拾われてから始まった。「ネシス・テナ」としての人生が。

私からすると、「毎日インスタント食品」の生活から大腕を振って離れられる日だ。この日だけは、ガナードが村に1件だけある食事処に連れて行ってくれる。

私が14歳のあの日、壊滅的な打撃を受けたフォルルの村も、7年間の間にだいぶ「復興」してきていた。

新鮮な羊肉が当たり前に手に入るようになり、村人はそれを「焼肉」にして食べる。中には、「肉を食べる事」に拒絶反応を持つようになってしまった人もいるが、そう言う人は食事処に来ない。

今思い出しても、あれはショッキングな出来事だったもんな、と、私も分かったようなことを思っている。

村人が不完全な狼になって、同じ村の同じ境遇の人々を「肉」だと思って食い殺し合う…。まさに、地獄絵図って言うものだった。

その騒ぎが起こった時、外に居た私とネイクは、中央公園のクラリス像の前まで走った。其処には、ガナードが用意してあった結界があって、私達はそこに逃げ込んだ。

家の中に居れば安全だったのに、私達の無事を知らないネイクのお父さんは、私達を探しに家を出た。そこで、獣人に食い殺された。

あの騒ぎで、誰を責めることもできなかった。みんな、訳が分からない「病」に脅かされて、自分を見失っていたんだ。

ネイクと私は、騒ぎの後に、生き残った村人に薬を打つ仕事を手伝った。私は自分一人の身だけ考えれば良い立場だったけど、ネイクは複雑だったんじゃないだろうか。

だって、生き残った人達の中には、ネイクのお父さんを食い殺した人も、混ざっているかもしれないんだから。

そんなことを考えていたせいか、その年の「一応誕生日」は、そんなに嬉しくなかった。

肉を食べることが悪いことに思えて、折角の「焼肉」も、あんまりいっぱい食べれなかった。おまけに、あの空気を読まないガナードが言ったんだ。

「知ってるか? 人間の肉って、『ちょっと変わった羊肉』に、似てるらしいぜ?」って。

本人は、ブラックユーモアのつもりなんだろう。だけど、状況と心境を読まない所が、最低。食事処に来ていた僅かの村人も、フォークの手を止めて帰っちゃうくらいだった。

みんな、心の傷って言うのは、癒えてない。だけど、誰も何も言わない。誰も何も言えない。

お坊さん達は、「誰も何も悪くない。あれは、天災だったんだ」って、みんなに言い聞かせてる。


私の変な癖が再発した。眠くなると地下の食糧庫に行って、空いた段ボール箱を探す。そして、その中に丸まって潜り込み、蓋を閉めて眠る。

こうしないと、眠れないんだ。段ボールの内側は、少しは断熱されてるけど、コンクリートの床に置かれているので、秋になると一気に冷たくなる。

それでも、私は段ボール箱の中で眠っていた。寒いときは、床のほうに何重にも段ボールを板にして敷いて、毛布を持って。

そして、待つんだ。「よく生きてたな」って言って、ガナードが…テティスが、起こしてくれるのを。

私はそうやって、何度も何度も、「生き返ろう」としていた。自分の心が死に瀕してると気づいたのは、何度目かの「眠り」に就く時だった。

麺棒を振り回して男の子を「退治」してたけど、ネイクのお父さんを殺したかもしれない人は裁けなかった、「ネシス・テナ」。

名だたる聖女達の話を聞いても、全然知恵のつかない、賢くなるどころか、「ちょっと変わった羊肉」を、もしかしたら自分も食べていたかもしれない、「ネシス・テナ」。

あの日は、ネイクが一緒に居てくれた。だから、私もガナードに頼りきりにならなかった。頭を働かせることをやめなかった。でも、もうサランは居ない。

一人ぼっちじゃ、結局何もできない、箱の中の子供のままの、「ネシス・テナ」。

これはきっと悪夢だ。いつか、起こしてくれる人が居る。さっきまでの恐怖を忘れて、「大丈夫」って言って頭を撫でてくれる人が居る。そう信じてる、「ネシス・テナ」。

それが、全部、無くなりそうだった。川の水が「浄化」されても、村人を薬で治しても、結局誰も救えなかった。自分より不幸な人を、実際目の前にしても、何もできなかった。

きっと、ネイクは、14歳の頃の重荷から、逃げたかったんだ。

だから、村人以外の人と結婚して、村を去った。この村は、ネイクの「過去」。帰って来たくない、「古い忌まわしい記憶」。私は、その一部になったんだ。

私は、眠りながら泣いていた。寒さに息を凍らせ、震えて、凍え死にそうになりながら。

「よく生きてたな」と、声が聞こえてハッとした。テティスが、段ボール箱を開けて私を見下ろしている。「自殺の方法としては、凍死はつらいと思うぞ?」

「テティス…」と、呟いて、しもやけになりかけていた手を伸ばした。その手を握り返し、私を助け起こしてくれた、その人の手は、とても暖かかった。


私は、捨て猫だと思われて拾われた、名前の無い子供じゃない。ネイクの「忌まわしい過去」になってしまったこのフォルルの村を、私もこうして去ろうとしている。

ソルエに引っ越すの。私は、私の棄てた「過去」と、対決しなきゃならない。もう、私は5歳じゃない。

勉強を始めるには、少し遅すぎるかもしれないけど、「語らい小屋」で聞いた僅かの知識と、ガナードから文字を習ってたから、本を読んで字を書くことはできる。

会話に出てこない難しい言い回しとかはよく分からないかも知れない。でも、分からないから勉強するんだ。

私は、ようやく、箱の中から出てこられたんだ。

眠るような死を望んでいた、箱の中から。


ソルエの街に住居を移し、女学院って言う所に入学した。入学試験は無かった。授業料を払えば勉強させてもらえる。

入学当初、私は、「おたんこなす」だった。いや、「みじんこ」かも知れない。

授業の最中に、手を挙げて、「その記号はなんて発音するんですか?」って聞いたら、「本当になんにも知らない奴が来やがった」と言う顔をされた。

でも、語学の先生は親切で、一つ一つの発音記号を指さしながら、実際に声でその記号の「音」を教えてくれた。


私は女学院の寮に住むようになった。テティスは、相変わらず何処かで働きながら、私の学費と、大量のインスタント食品代を稼いでくれてる。

テティスもちょっと気が利くようになってきて、お湯を注げば食べれる食品、だけではなく、お湯で温めて食べる食品、も、送ってくれるようになった。

レトルト食品、と言う物らしい。

パックに入れたままお湯でぐつぐつ煮て食べるライスや、カレーと言う、ライスにかけて食べるソース状の食品や、ハンバーグと言う、ひき肉を丸めたものなんかもあった。

私がレトルト食品の夕ご飯を用意していると、同じ寮の女の子が、「ネシスの夕食は、いつもユニークね」って声をかけてくれた。

新しい世界で、新しい友達と出逢ったんだ。

私は、毎月送られてくる大量のレトルト食品を、その子に「お裾分け」するようになった。

彼女の名前は、ユラ・カイリー。南の血が入っているそうで、白い肌をしてるけど、真っ黒な髪と漆黒の眼をしていた。

私は、彼女の深い夜の海みたいな瞳がすごく気に入って、彼女に会うたびに、冗談めかせて「今日も綺麗ね」って言うようになった。

それを聞くと、ユラも「ありがと。木の葉の妖精さん」なんて言ってくる。なんで「木の葉の妖精」なのかと言うと、私が乾きたての枯葉みたいな明るい茶色の髪をしているから、だって。

「枯葉」って言うと、ちょっと皮肉ってるみたいだけど、南の方では「木の葉が枯れ朽ちる」のは、優美な秋の風景を描写する言葉なんだって。なんとポエティックな褒め言葉だろう。

普通の世界で「相手を綺麗だの妖精だの言って褒め合う」なんて、ちょっと変かも知れないけど、女の子の世界では、お互いを褒め合うことがビタミンと同じくらい必要なんだ。

きれい、かわいい、すてき、すっごーい。何でも良い。とにかく褒めて褒めて褒めちぎる。それで、私達は友情を確かめ合い、自分達の心に「栄養」を送り合いながら過ごす。

落ち込んでいる子が居たら、「泣かないで」、「大丈夫」、「どうしたの?」、「気にしないで」、「ちょっと休んだら?」って、やっぱり自分達をお互いにケアする。

私はそんな「女の子の世界」が、案外嫌いじゃなかった。だけど、テティスの言っていたことは本当だった。

「あの子、調子乗ってるよね。南の血が入ってるくせに」って、聞こえよがしにユラをけなしてくる人達がいた。その子達は、講義を受ける前の席に、私とユラが居るのは知ってる。

悪口を言ってる子達は、ユラの行動を、「教師に媚びてる」とか、もっとひどい言葉でひそひそ罵っていた。

自分達の姿は見えてないつもりで、きっと、ユラだって怖がって振り返らないだろうと思って、透明人間にでもなったつもりで、他人を罵る。

そう言う「女の子」も居るんだって、私はその時知った。私は、その悪口を言ってる子達をぶん殴りたくなったけど、此処は「学校」だ。騒ぎを起こしてはならない。

その子達は、そう言う学校のルールを逆手に取ってるんだ。

私がイライラムカムカしてたら、普通にノートを取ってる様子だったユラが、突然立ち上がって後ろの席を振り向き、綺麗な漆黒の瞳を鋭くして悪口を言ってた子達を睨むと、異国の言葉で何か言ったの。

講師の先生が、「ユラ・カイリー。何かあったんですか?」と聞いたら、ユラは、「なんでもありません。私語がうるさかったので注意しました」ってはっきりした声で答えた。

その時、私はユラがなんて言ったか聞き取れた。

「目を見て物を言え! 臆病者!」って言ったんだ。

ユラは、その漆黒の瞳のように、凛とした意思を持った女の子だった。