月の微笑 1

飛行船は、ゆっくりと大陸へ近づき、船着き場に着陸した。

眠気でくらくらしていたローブ姿の若い女性客が、プロペラの唸る音が止まったのに気付いて目を開けた。

「午前5時40分!予定通り、ムーティンの波止場に到着いたしました!」と、大声で船員が言う。「チケットの半券は回収させていただきます! お手元にご用意の上、お降りください!」

黒いローブを着た魔女は、足元に置いていた旅行鞄を手に取り、ポケットの中から半券を探り出すと、飛行船の出口に向かった。

「リオナ、気分はどう?」と、魔女の耳に、姿の無い者の声が聞こえた。

「首が凝っちゃった」魔女は心の声で答えた。「船と違って、座りっぱなしじゃないと成らないのは少し辛いわね」

出入り口で船員に半券を渡し、魔女のリオナは陸地に降りた。

「さて、ここからまた陸路か」と、リオナは呟く。そして、飛行船の上を見上げ、心の声を送った。「エリック。外の様子はどうだったの?」

「安全快適」と、リオナの心の声にこたえて、何等かの大きな霊体が飛行船のバルーンの上から、魔女の近くへ降りてきた。「あのくらいの高度だと、セイレンも近づいてこれないんだね」

「一仕事が役に立ってるって事ね」リオナは心でそう答えてため息をついた。「さぁ、停留所へ行きましょ。この様子じゃ、馬車の列も長そうだから」

リオナの予想通り、日が昇る前から、乗合馬車の停留所は長い列が出来ていた。

到着した大陸は、そろそろ、夜風も冷える時期だ。肌着の上にローブを着ているだけのリオナを、先ほどエリックと呼ばれていた霊体が包み込み、寒風から守っている。

「エリック。あなた、寒さは分かるの?」と、リオナが心の声で話しかけた。

「僕は寒くないけど、周りの人達が寒そうだからさ」と、霊体のエリックは答えた。「リオナも、そろそろ服装に気を付けたほうが良いよ」

「私の住んでた地方じゃ、冬の装備なんて要らなかったからね」と、リオナは故郷を思い浮かべた。

そのイメージが伝わったらしく、エリックは「ムーティンより南に住んでたの?」と聞いてきた。

「そうよ。褐色の肌の親から生まれたのに、私みたいな肌の白い人間は珍しいって言って、よく笑われたわ」と、リオナは苦笑しながら言う。

リオナの表情からして、そう悪い思い出でもないらしいと察したエリックは、「お父さんとお母さんは、アトランドの人なんだね?」と聞いた。

「そう。でも、どっちも混血児。私は劣性遺伝を受け継いだの。ついでに、膨大なる魔力もね。どっちも、シャーマンの血筋なのよ」珍しく饒舌に喋るリオナは、少し嬉しそうだ。

心で色々と会話をしているうちに、乗合馬車が到着した。


馬が6頭ついた、大型の乗合馬車に乗りこみ、リオナはムーティンの山脈地方に向かっていた。

飛行船の中で眠れなかったこともあり、リオナは乗合馬車の中で居眠りをし始めた。

「リオナ。起きて。スリに狙われたらどうするのさ!」エリックが慌てて起こそうとしたが、エリックの力に守られてすっかり油断しきっているリオナは、すやすやと眠ってしまった。

「全くもう」とぼやいて、エリックはリオナを包み込んだまま、悪漢が近寄って来ないように見張っていた。もしもの時は、息をふさいででも、リオナに起きてもらうしかない。

「あなたの主は眠ってしまったのね」誰かの声が、エリックに囁いた。馬車の中をよく探ると、リオナ以外の魔女の気配がする。

「警戒しないで。私も同業者よ」と、黒衣のドレスを纏ったベール姿の婦人が、心の声を発している。婦人が顔を上げた。リオナとよく似ている、アメジスト色の目をしている。

婦人は、自分の座っていた場所から離れ、リオナの前に座り込んだ。「おまじないをかけてあげる」

そう言って黒衣の婦人が、ベージュのマニュキュアを塗った爪先を、エリックの霊体を通り抜けて、リオナに向けた。

婦人の指先から、魔力が放たれたのがエリックに伝わった。そして、リオナにも。

冷水を浴びせられたように、リオナが飛び起きた。「今の…」と、リオナが声を出して呟く。

「どう? 眠気は覚めたでしょ?」と言うと、黒衣の婦人は微笑んで、元居た場所に戻った。

「何をされたの? 魔力が通ったのは分かったけど」エリックも訳が分からないと言う風にリオナに聞く。

「少し、エネルギーをもらったの」目が覚めたてのリオナは、額に手を当てて、アメジスト色の目を瞬く。「おかげで疲れは取れたわ」


山脈地方の最寄で数名の乗客と共に馬車を降りると、先ほどの婦人も同じ場所で降りた。

「こんにちは」と、婦人が声をかけて来た。「私はクレア。クレア・レイル。あなたは?」

「リオナ・メディーナ」とリオナは名乗った。「さっきはありがと」

「どういたしまして」とクレアは言ってから、リオナの耳元に囁いた。「いくら精霊に守られてても、油断しちゃだめよ。二人とも、修行中なんでしょ?」

「そうよ。気を付けるわ」と、リオナは答えた。

「この近くに、私の屋敷があるんだけど、少し休んで行かない? それとも、知らない魔術師の家に行くのは嫌?」と、明るくクレアは言う。

「休ませてもらえるなら、それに越したことはないわ」リオナは、回復しきっていない疲れを感じて言う。「お言葉に甘えさせてもらおうかしら」

クレアは、フフッと笑うと、「屋敷はこっちよ」と言って、先に歩き始めた。


クレアの屋敷は、森に入る手前に在った。リオナが旅の拠点にしている屋敷よりは小さめだが、魔術を扱うものが一人で住むには十分な広さだ。

「あちこち、魔法陣や紋章が描かれてるけど、あんまり気にしないで。ただの獣避けよ」

クレアはそう説明しながら、家の鍵を開け、リオナを屋敷に招き入れた。

大きな玄関ホールは、壁画で埋め尽くされていた。狼を傍らに置いた、美しい女神の絵が、特に目を引く。天に銀色の三日月と、足元に弓矢を模したマークが描かれている。

「ちょっと自慢なんだけど、これ、全部私が描いたの」クレアはニコニコしながら言う。

「獣避けとしては、鉄壁の守りね」リオナは、画力にも、そこに込められた魔力にも感心しながら言う。「これだけ警戒しなきゃならない、危険な獣が出るってこと?」

クレアはわずかな微笑みを消さずに言う。「そう言うこと」