月の微笑 3

屋敷を出たクレアの後を付け、エリックは近隣の村の手前まで来た。

危険な精霊だらけの館に、意識を無くしているリオナを置いておくのも心配だったが、もしもの時はクレアが気づくより最速で屋敷に戻れるよう、常に館の方向に意識を向けていた。

クレアは、間もなく赤ん坊を連れて戻ってきた。何処かから、さらって来たのだろう。

エリックは、立ちはだかるようにクレアの前にエネルギーで「壁」を作った。

ふいに足が進まなくなったことに気づいたクレアは、エリックの作っている「壁」に手を当てた。その手の平に、呪符のタトゥーがある。

タトゥーが魔力を発する前に、エリックはすかさず霊体を翻し、クレアの片腕から赤ん坊をひったくった。

クレアは、エリックに気づいたらしい。自分の屋敷のほうに、クレアが視線を送るのが分かった。

クレアの心の声が聞こえる。「ステラを開放しろ! 餌は今、守られていない!」

エリックは、その声が屋敷に届く前に、クレアの屋敷に移動した。エリックが中庭の窓を開けると、2階の鉄格子の鍵の開く音と、鎖が解かれる音、鉄格子が開かれる音がした。

寝室に滑り込み、リオナの傍らに眠っている赤ん坊を置くと、エリックは狂った者の近づいてくる気配に気づいた。獣のように、四つ足で走ってくる足音がする。

その思考の中には、「暖かい人間の血肉を喰らう事」しかない。「餌」であるリオナの匂いを追って、1階の寝室に向かってくる。

エリックは、2階から降りる階段の前で、ステラを迎え撃つことにした。

エリックは今まで、何かを「攻撃」したことはない。だが、今はそれをしなければならないのだ。

どうする? 一瞬考えたが、エリックは、自分が「霊体」と言うエネルギーであることを自覚していた。

リオナは、魔力で何かを攻撃するとき、一瞬魔力の出力を上げる。あれと同じことを、自分のエネルギーを使って行えば良い、結論はすぐに出た。

「餌」の気配を追って、ステラが階段のほうに来た。エリックは、全力を込めてステラの鼻先に、エネルギーを集中させた霊体をぶつけた。

ステラは、エリックと、自分の屋敷の他の霊体の区別がつかないらしい。何かに鼻を殴られたことが分かり、鼻血を出して床に転げ、一瞬呆然としていた。

「食べさせて。私が、食べるの。あの肉は私が食べるの!」

ガラガラ声でそう叫んで、ステラはまた階下への階段に飛び込もうとした。

エリックは、エネルギーの壁を作って、ステラの進路を妨害した。ステラは、魔力が使えないようだ。爪と歯を使って、知恵の無い狼のように、エリックの作った壁を、掘り返そうとしている。

ステラ一人を阻害するのは簡単だが、クレアが帰ってきたら厄介だ。エリックは、最終手段をとることを決意した。

霊体でステラを包み、息をふさぎ、抱きつぶすように締めあげた。

そして、ステラに触れている部分に高温のエネルギーを集中させ、次第に熱の温度を上げて行った。

息をふさがれ、高熱で全身を焼き尽くされ、ステラは気絶した。

エリックはそれでもステラを離さず、ステラの全身の骨が折れ、四肢がひしゃげ身動きが取れなくなるまでねじり殺した。

息絶えたステラの、焼けた躯が、階段下に落ちる。エリックのエネルギーで、ステラの霊体は残らず消滅してしまった。

初めて、「何か」を殺した。エリックは、幽霊だった頃の名残である、腕の霊体が震えているのが分かった。

クレアが屋敷に戻ってくる気配がした。エリックは、ステラの骸を廊下に残して、素早くリオナの元に戻った。


リオナは、赤ん坊の泣き声で目を覚ましていた。

「リオナ。目が覚めたの?!」ひとまずエリックは安心した。

「この赤ちゃん、何?」と、まだ眠たげなリオナは言う。「なんだか、すごくだるくてフラフラするんだけど」

「眠り薬を飲まされたからだよ」と言って、エリックはリオナの額に触れ、事と次第を明確に伝えた。すると、表情の変わったリオナが、「私の鞄から、水色の薬の入った瓶を出して」と言った。

エリックが指示通り、水色の液体の入った小瓶を鞄から取り出してリオナに渡すと、リオナはその小瓶の中身を一気に飲み干した。

「呪術薬を無効化する薬よ」と、エリックの疑問を察してリオナは言った。即効性のある解毒剤らしく、口元をぬぐうリオナの手つきは、いつも通りの機敏さが戻っていた。

リオナはすぐにローブに着替え、「エリック。クレアの場所まで案内して」と言って、透明な鉱石のついた杖を左手につかんだ。


1階の階段の下まで落下していたステラの焼け焦げた遺体を見ながら、クレアは遺体の横にかがみこんでいた。

「ステラは…死んだのね」と、リオナとエリックの気配に気づいて、クレアはゆっくりと言った。

「敵討ちをするなら、相手になるわよ」とリオナは厳しい顔で言う。

「敵討ち?」と、クレアは不思議そうに呟いた。そして立ち上がり、微笑んでこう言った。「とんでもないわ。私は、ようやく、この狂った妹から、解放されたんだから」

クレアは、フフッと笑いをこぼし、肩を揺らして天を向くと、声高に笑い始めた。

その姿を、窓から指す月光が照らし出していた。


屋敷に住む精霊達を使って、クレアは秘密裏にステラの骸を森の奥に埋めた。

「あなたのことを食べさせるつもりじゃなかったのよ。本当に、唯のお客様を招いたのは久しぶりだったから」と、落ち着いたクレアは別れ際にリオナに言った。「赤ちゃんは、元の家に戻してきたわ」

「それで許されると思ってる?」とリオナは言う。「狂った妹の『餌』にした人間は、山ほど居るんでしょ?」

「許されるとは思ってない。だけど、彼等は今まで、精霊として私の屋敷で働いていた。彼等も解放するわ。一人残さず、天に逝けるようにね」

「道理で、精霊の多い屋敷だと思った」リオナはそう言って、「さよなら」と告げると、街道へ向かって歩き始めた。

「放っておいても良いの?」と、エリックがリオナの後を追いながら言う。

「ああ言う輩は、何を言っても無駄」と言って、怒りを抑えるような表情をしたまま、リオナは振り返りもせずに歩いた。

エリックも、きっとクレアには、何を言っても「後悔の念」など起こらないのだろうと思い、複雑な気分でリオナの後に続いた。

2人が去っていくのを、クレアは微笑を浮かべながら見つめていた。