太陽が水平線から姿を消し、西空に残った淡い残照も消えて行く。
ベッドから出て、リッドは着替えの入った手荷物を持ってシャワールームを探しに行った。
廊下にあった設備案内を見ると、1等室の食堂を通り抜けないとシャワールームには行けないらしい。
人の多くいる場所を通り抜けるのは気が引けたが、少しうつむき気味に、楽団が奏でる音色とワインと料理の香りが漂う部屋を通り過ぎた。
無事に食道を通り抜け、シャワールームに通じる廊下に出たリッドに、誰かが声をかけてきた。
「ご病気のリッド君? ご機嫌はいかが?」
「サラだったっけな」とリッドはとぼけて見せた。「率直に聞く。食べ残しを放っておいたのは、お前か?」
「違うわよ」と、サラは真面目に言った。「私、潔癖症なの。食べ残しを放っておくなんてナンセンスよ。つまり私達以外に、誰か居るって事よ」
「少なくとも、俺達のやり取りを聞いてて、意味が分かる奴だな」リッドは心の中で言った。「人間の首を簡単にかみちぎれるくらいなら、ウェアウルフの線を探ったほうが良い」
サラは急に真剣な顔つきになり、食堂を振り返った。人間が数十人おり、色々な思考がざわざわと音を立てている。
「俺は風呂に入ってくるから、しばらく色々嗅ぎまわっててくれ」と言って、リッドはシャワールームの中へ入った。
サラは一瞬、食道に向かってイーブルアイを閃かせそうになったが、周囲に正体を晒すようなものだと察して、落ち着くように自分に言い聞かせた。
「1等室の廊下で、遺体が見つかったそうよ」と、噂をしている見知らぬ婦人の声が聞こえた。「廊下が血だらけだったみたい」
「八つ裂きにされてたって事なの?」と、話し相手の別の婦人が答えた。「嫌だわ。殺人狂でもいるのかしら」
こうして噂と言う物は大きくなっていくのだなぁと、サラは思いながら、別の声に耳を傾けた。
「殺されたのは客人だ。犯人もきっと客の中にいるだろう」船員らしい者の心の声が聞こえた。「俺達の中に犯人がいるはずがない。今まで何事も無かったんだから」
「神よ。これ以上の犠牲を出さずに済みますように」
「なんでこんなことが。起こるなら他所の船で起こってくれ」
「夜の警備を厳しくしなければ」
「3等室の連中が怪しい。雑魚寝部屋は鍵を開け閉めしなくても出入りできる」
「怖い。怖い。怖い怖い怖い」
「必要意外で夜出歩く者には注意しないとな」
「バイオリン、音が外れてるぞ」
「一人にならなければきっと大丈夫だ。一人にならなければ」
様々な心の声が聞こえてきて、サラは頭がいっぱいになりそうになった。
「読む」ことに関して自信はあるが、その能力を抑制できない部分がある。
もちろん、そんなことをリッドに言ったら馬鹿にされるだろうから言わないが。
だが、リッドの能力についてを、サラは読み取ることが出来なかった。あんな、自分とさほど年齢も変わらない風に見えるパンパネラが、どんな術を使って能力を隠しているのか。
それも疑問だったが、サラは殺人が起こった時、一番にリッドを疑った。だが、先ほどの様子からして、リッドもサラを疑っていたようだ。
死臭を消すためにシャワーに入る…にしては、最初に会った時のように、何の気配もしなかった。
サラは、最初に展望室でリッドを観た時、何かの亡霊が要るのかと思った。人間のような気配もしなければ、同じパンパネラとは思えないほど、闇の者の持つ気配もしない。
あの赤毛の少年が古典の小説について考えていることを読み取り、ようやく亡霊ではないと確認したくらいなのだ。
昨晩、リッドがこちらを観た時、少年の心の中に「リーザ」と言う言葉が浮かんだ。
そこから簡単に、表層の思考の断片がいくつか読み取れたが、それはリッドが無警戒なのではなく、リーザと言う少女とサラの容貌が似ていることで、リッドが気を緩めていたのだと言う事もさっき分かった。
何がリーザよ。私は、あんな小生意気そうな子供じゃなくて、もっとたくましくて美しくて気が利いて品のある美女か美男子をつかまえてやるんだから。
そんなことを考えていると、食堂と廊下をつなぐガラス戸から、サラを見つけたウェイトレスが、「いらっしゃいませ」と声をかけてきた。
せめて何か口にしないと、疑われそうだ。「ワインをちょうだい。それから、カットフルーツ」と言って、サラは案内されたテーブルの椅子に腰かけた。
クリスティは、明かりをつけた個室の中で、リッドが戻るのを待っていた。鍵はリッドに預け、個室の扉は施錠してある。
何かあれば、私がリッド様を守らなければ。クリスティは心の中でそう念じ、出来るだけ消耗の少ないように、椅子に座って個室の明かりのほうを向いていた。
瞬かない瞳と両手の爪を透かして、光を受け取った供給装置が、クリスティの体内でモーターを動かし始めた。
パリパリと少し帯電する音がするが、個室のドアから漏れてしまう音量でもないだろう。
充電が十分に済むと、クリスティは部屋の鍵が開いた音に気づいた。
まだ湿っている赤い髪をタオルで拭きながら、リッドが個室に戻ってきた。その後ろに、リッドと同じくらいの年頃に見える、銀髪の少女が一緒にいる。
「どちら様でしょう?」と、クリスティは聞いた。
「サラ・アンドレーよ。あなたは…」と言って、サラは言葉を切った。「この人、心の声がしないわ」
「ちゃんと心はあるぜ」とリッドは言った。「ラジオの周波数が違うと、何も聞こえないだろ? あれと同じことが起こってんだよ。それより、自己紹介の前に心を読もうとするのは悪い癖だな」
「自己紹介で驚かせるのが私流なの」とサラは言った。
「それじゃ、あっと言う間にエクソシストに捕まるだろうな」とリッドは湿ったタオルをテーブルに放り投げ、仕上げに髪をかき上げて水分を蒸発させた。
「さて、それじゃぁ、どんな声が聞こえたかをうかがおうか」そう言って、リッドは長椅子に腰かけると、サラに手招きをした。「ちょっと手をかしてみな」
サラは用心しながら手を差し出した。同じ吸血鬼同士、多少エネルギーを吸い取られても、そうダメージはないはずだが、リッドの能力が分からない以上、警戒は怠れない。
サラの手指をリッドが軽くつかむと、さっきサラが聞いた心の声の渦が、一瞬頭をよぎった。
「なるほど」と、リッドは言ってサラの手を放した。「ひとり、気になる奴がいたな」
「誰?」と、サラは聞いた。
「一人だけ、我を忘れてる奴が居るんだよ。『怖い怖い』って呟き続けている奴。恐らく、こいつがウェアウルフだ」
「何故、怖がってるの?」と、サラは聞いた。
「自分で自分の能力をコントロールできないか、自分がウェアウルフだって言う自覚がないか、だな」リッドはこともなげに言った。「我に返るたびに、目の前に死体があったら、人間なら驚く」
「そんなものかしら」と言って、サラは問いかけた。「犯人は分かったけど、どうする? 正義の味方を気取ってみる?」
「なるべく関わりたくないところだが、この間、新月を通り過ぎたばかりだ。俺達に罪をかぶせようって気が向こうにないなら、放っておいてもかまわないが…。今朝のことがある」
リッドは指で頬を叩きながら考えた。
「一計を案じるか」