月の光が射し込んでくる時間になった。
晴れた空に、きっと満ちてゆく月が見えるだろうと思うと、エルダは恐怖と共に好奇心を覚えていた。
普段の食事では、決して味わえない血の味、肉の味。喉に噛みつくとき、喉笛まで牙を通せば、犠牲者は悲鳴も上げられずに死亡する。
いつもこのことを思い出すのは、エルダが月を見る前だ。月を見た後、何が起こっているかは分からない。
だが、部屋に戻った自分の口元に血の跡が残り、言いようもない満腹感を覚えていることを自覚してから、何かを食い殺したことを察するのだ。
昨日は人間の肉にありつけた。船には人間しかいない。殺人事件があったと船員が伝えに来たときは、エルダは既に客室に備えられた洗面台で返り血の始末をしていた。
今回は運が良い。スケープゴートが2匹もいる。月の明かりが強くなるにつれ、恐怖感はスリルに変わり、好奇心は貪欲な食欲に変わって行った。
豚とも牛とも違う、全く新しい肉の味。
この船に乗った日に、奇跡が起こった。展望室に居たエルダの耳に、吸血鬼と思われる少年と少女の会話が聞こえてきたのだ。
小さな声で話していたが、鋭敏になったエルダの耳には、2人が話していることがすっかり聞き取れた。
なので、昨日は獲物の首に噛みついた後、意識を失った獲物を抱え上げ、1等室の218号室の前で首の肉だけを食いちぎってやった。
滴った血の跡をわざと残すように、廊下の行き止まりの場所まで獲物を引きずり、そのまま放置した。
船の旅はまだ続く。人間はまだいる。一匹くらい、食べ欠けを放置しておいても、食欲を満足させることはできる。
エルダは、自分に備わった美貌にも感謝していた。金糸の髪に透き通るような灰色の瞳。形の整った目元、長すぎも短すぎもしない鼻筋、ふっくらと赤味を帯びた唇。
透き通った肌、しなやかな手足、コルセットで締め付けるまでも無く細くくびれた体、華奢な骨格に備わった、強靭な力。
昼間、目星をつけておいた女とは、展望室で逢うことを約束している。その愚かな女も、エルダの美貌に引き寄せられて、「今晩、一緒にお食事をしながら話しません?」などと言ってきた。
丸々と太った美味そうな女だった。自分がお食事にされるとは、思っても居ないだろう。
月を見る前の自分はこんなに強気になれるのに、何故「食事」を終えたばかりの私はあんなに怯えているのだろう、とエルダは不思議に思った。
その一点だけに対しては、エルダは全く記憶が無かった。
展望室で待っていた女に、エルダは親しく挨拶をした。少し話をして、1等室の廊下を歩いている時…エルダは素早く、女の喉に噛みついた。
自分の口の中に鋭い牙が出来ていることに、エルダは何も不自然さを感じなかった。
何処かで、ピーッと口笛を鳴らす音がした。
「あちこちで食い散らかしてる奴はお前か?」と、少年の声がした。
なんの気配もしなかったはずの廊下の先に、赤毛の少年が立っている。
下の階段から、人間の船員達が、エルダを取り押さえようといっせいに向かって来た。
エルダは獲物から牙を放し、首から血を滴らせている太った女を人間の群れに投げつけた。
まだ、目の前の少年にしか顔は見られていない。この少年を殺して逃げなければ。エルダは動きにくいドレスを引きちぎりながら、少年の目の前まで疾走した。
「なんとも凛々しい顔立ちで」と少年は言って、エルダに手鏡を向けた。
その鏡には、口から血を滴らせ、引きちぎったドレスを体に絡みつけた、一匹の人間のような狼が映っていた。
なんのことか瞬間的には分からなかったが、鏡に映った影が自分の着ているドレスの切れ端を身にまとっていることを知り、エルダは恐怖を覚えた。
これが私なの?! エルダは心の中で叫んだ。口から、遠吠えのような悲鳴を上げながら、エルダは船の壁を這い上がり、甲板に駆け上がった。
「あー、あー。我を忘れちゃって」と、赤毛の少年は呆れたように呟いた。「階段使う知能も無くなったか」
甲板は月の光で満ちていた。その銀色の光を受けて、エルダは自分がすさまじい勢いで人間ではなくなって行くことに気づいた。
口からは言葉が出なくなり、グルルと苦しげに喉を鳴らしながら、甲板に横たわった。体が、人間の骨格を失い、狼の姿に変貌していく。
「こっちよ! 早く!」と、少女の声がした。銀髪の、深い青い目をした少女が、銃器を持った人間達を連れて甲板に出てきた。
「抵抗するな!」と、銃器隊の隊長が、月の光の中に浮かび上がった、巨大な狼に呼びかけた。
「何言っても無駄よ! もう、人間の自我はないわ!」と、銀髪の少女が言った。
実際、エルダは既に人間の名残を全く失い、一匹の巨大な狼として、敵意を持って向かってくるものを噛み殺すことしか考えていなかった。
「撃て!」と言う隊長の声とともに、銃器隊が、弾丸を放った。
エルダは後足に力を込めて操舵室の上に飛び乗った。そして船尾のほうへ駆け出し、船から飛び降りようとした。
「おっと。逃げるには罪が重すぎるんじゃねーか?」と言う少年の声がした。エルダは後足を捉えられて、船尾に頭を打ち付けた。
「自覚が無かったとなると、ざっと4、5年くらい前かな?」と言った少年の声を聞き、エルダは捕まっている後足から、何かが急激に吸い取られて行くのを感じた。
体に満ちていた力が失われ、エルダの中に人間の思考が戻ってくる。
私はウェアウルフだ。しかも人食いだ。人間すら肉としか見ていなかった。許されることではない。
そう自覚すると同時に、裸身のエルダに少年が自分の外套を被せた。
「お前はもうウェアウルフの力は失った。刑務所で、唯の人食いとして罪を償いな」
少年がそう言った後から、人間達がエルダを捕らえに来た。