Michele's story 10

私は10歳からずっと眠っていた。いや、詳しく言うなら、私の体だけがずっと眠っていたのだ。

一日。まず、看護婦さんが来る。朝食代わりのミルクを鼻から胃に通したチューブで点滴してくれる。ミルクは、朝昼晩に3回点滴された。

次に、お見舞いの時間が来ると、ママが来る。ママは毎日、花を一輪でも一束でも、必ず持ってきて、私の部屋に飾ってくれた。

そこには、私以外の患者は居ないようだった。ママは毎日、本を一冊持ってきて、私に読み聞かせてくれた。

その本は、童話の時もあれば、難しい外国語の教科書の時もあった。

私がいつ体を動かせるようになっても良いように、料理の本を読み聞かせてくれることもあったけど、ソースの配合の部分は、難しくて何度も聞かないと覚えられそうになかった。

その後は運動の時間だ。私には動かせない手足を、ママが縮めたり伸ばしたりひねったりしてくれる。

そんな日課を終えると、ママは「じゃぁ、また明日来るわね」と言って帰って行った。私はそこから、ずっと花の香りと、私の心音をはかっている「しんでんず」の音を聞いていた。

時々お医者さんが来て、私の点滴を指していないほうの腕を取って、脈を測ったり、「ケイトちゃん? 分かるかい?」と声をかけてくれたりした。

だけど、私は返事を返したくても、指一本動かせなかった。

パパは私の病室に来たことはない。ママの話では、私の入院費を稼ぐために、一生懸命働いているらしい。

夜中になると、看護婦さんが部屋の明かりを消してくれて、「おやすみなさい」と言って部屋を出て鍵をかけてくれた。

眠ることだけはいつでもできたから、私は夜はうとうとと浅く眠っていた。

私は、自分の状態についても知っていた。原因が何かは記憶が落ちぬけてて思い出せないけど、「のうざしょう」と言うもので、ママとパパは「えんめいそち」をきぼうしてくれたのだ。

幸い、私は自分で呼吸することが出来た。耳も聞こえていた。だから、毎日変わる花の香りや、ママの読んでくれる本の内容だって、きちんと記憶していた。

ある日、ものすごく大型のハリケーンが来る、と言う話を看護婦さん達が話していた。

「ケイト。お誕生日おめでとう」と言って、お見舞いに来てくれたママからも、外で降っている雨のにおいがした。排気ガスのにおいの混じった、独特の湿ったにおいだった。

「あなたも、今日で18歳よ。大人の仲間入りね」と言って、ママは色んな香りのする、たぶんとびきり豪華な花束を持ってきてくれた。

でも、私は気が気じゃなかった。私のいる部屋は、どうやら病院のとても高いところにあるらしく、外で風の唸る音が聞こえた。その音はどんどん強くなり、窓ガラスが軋む音がした。

そして、ママの座っている椅子の後ろにある窓ガラスが、突風を受けて時々ひどい軋みをあげていたからだ。

「ハリケーンが通り過ぎるまで、お母様は病室にお泊りいただくこともできますよ?」と、看護婦さんが声をかけてくれた。

「ありがとうございます。それじゃぁ…」と言いかけたママの背後で、ついに窓ガラスがはじけ飛んだ。

「ママ!」私は心の中で叫んで、上体を起こすとママを力いっぱい横に突き飛ばした。

10歳の頃から動かして無かった手足だ。力いっぱいと言っても、幼児の力にも満たなかったかもしれない。

でも、ママの体がふらりと横にそれたのが分かった。割れたガラスが、私めがけて飛んで来るのが聞こえた。

突然、体が水の中に沈み込んだ。私は、とっさに、ママが遠い外国であったと言っていた「つなみ」と言う災害の一種を思い浮かべた。

目を開けようとしたが、そこまでの力はその時の私にはなかった。

体も、さっきの一瞬で力尽き、無抵抗で水の中に沈んでいく。

息を止めているのも限界だ。私の口と鼻から、一気に気泡が出て行った。そして…おかしなことに、口や鼻に水は入ってこない。

その不自然さを認識しかける前に、どさりと土のある場所に落ちた。木の葉のざわめく音がする。土のにおいと、植物のにおいがする。

まるで、ママの読んでくれた「不思議の国のアリス」みたいだ。

そんなことを思っていると、男の人の声が聞こえた。「パジャマでお越しとは、珍しい客だな」

私は、一生懸命目を開けようとした。何度か瞼をこすっているうちに、涙が通り、瞼がゆっくりと開いた。

最初は光の滲んで居た視界が、段々鮮明になってくる。

「あんたの名前は?」と、ずいぶん年上のような、制服を着た男の人が聞いてきた。

「ケ…ケイト…」と、私は8年ぶりに声を出した。「ケイト・アーチャー…。私…確か病院に…」

「ふむ。病院に?」と、それ以上は言わずに、ずいぶんお兄さんの男の人は、私と目線を同じくするように、地面にかがみこんだ。

「ずっと入院してて、体が動かせなくて、ママが毎日来てくれて…」と、私は拙く説明した。

いくら毎日本を読み聞かせてもらってても、やっぱり自分の言葉を話す訓練が出来ていないようだ。

けれど、そのお兄さんは私の話を辛抱強く聞いてくれた。

「窓のガラスが飛んできて…」と、そこまでの経緯を、あちこちに脱線しながら説明すると、お兄さんは「OK」と言って、私の言葉を遮った。

お兄さんはかがんでいた地面から立ち上がり、「あんたには2択がある」と言った。

「元の世界に戻って、あんたのお母さんか、あんたのどっちかが大怪我をする道」と、お兄さんはひどいことを言った。

「もう一つは、この森に留まる代わりに、元の世界からあんたの存在が消える道」と、お兄さんはもっとひどいことを言った。

「よーく考えて決めな。選択は一回きりだからな」と言う、お兄さんの様子は子供に言い聞かせるようだった。

言われたとおり、私はよーく考えてみた。

私がママを突き飛ばさなかったら、ママは背中に大怪我をしていた。ママを突き飛ばしたから、たぶんあのままでは、私が大怪我をしていたんだろう。

この森に留まれば、私の存在が元の世界から消える。今の私は怪我をしていてない。ママもかすり傷程度で済んだだろうか。それなら話は決まっている。

「私、ここに残る」と、私は意思を固めた。「私の存在が消えちゃっても、私はママを助けたいもの」

「了解」と、お兄さんは片手を差し出した。「近くに仲間達がいる。連れっててやるよ」

「ありがとう」と言って、私はその手につかまった。でも、立ち上がろうとした脚から力が抜け、がくんと膝をついてしまった。

「こりゃ、しばらくリハビリが必要だな」と、お兄さんは言った。


「これが私の来た時の話です。お兄さんだと思った人が、自分より年下なんて後で聞いて笑っちゃいました」と、ケイトはすっかり大人じみた顔で言った。

「それからリハビリと喋り方の訓練が少し続いて、私の次に…クアイが来て、セーラが来て、ライアンが来て、ワトソンが来て、それからあなただったかな?」

「もう、順番暗記しちゃってるよね」と、セーラがおかしそうにクスクス笑いながら言った。

「10歳から眠ったきりだったんじゃ、リハビリも大変だったでしょう?」と、ようやく腕の包帯が取れたセシリアが言った。

「喋り方は本の中のお話しか知らないけど、手足の動かし方はすぐに慣れました。だって、どれだけ運動しても疲れないんだもの」

と、ケイトもおかしそうにクスクス笑った。

「私ね、ちょっと信じてるんです。ここはきっと不思議の国で、いつかとびっきり素敵なハプニングが起こるって」

そう言って少女のように明るく笑うケイトを見て、セシリアは静かに微笑みを浮かべていた。