喉の手術の前日だった。私は、手術前最後の授業を全部終わらせ、重たい鞄を持ちながら入院の準備を始めなきゃって思ってた。
別に、声帯を取り出すわけじゃないから、声は残る。だけど、大事な喉を切開されて、ポリープを切除しなければならないって成ったら、不安にもなるじゃない?
大学は声楽部を希望していたんだもん。高校に入って、合唱部で自慢のメゾソプラノを披露していた私としては、ポリープの件は降ってわいた災いだった。
急激に音程が低くなって、ガラガラ声しか出なくなっちゃったときは、すごくショックだった。
それで、緊急に入院日が決まった。
私の人生、どうなっちゃうんだろうって、普段着に着替えて、自室のベッドでゴロゴロと時間が過ぎるのを待っていた私は、いつの間にか眠り込んじゃったの。
その夢の中で、ミシェルと出逢ったの。
「久しぶりね」って黒猫が言ったのを、私は変わった夢だなぁって思いながら聞いてた。「決断は決まった?」って、ミシェルが言ったわ。
私は、なんのことだか分かんなくて、「決断って何?」って猫に聞いたの。
そしたら、ミシェルは呆れたみたいに、「やっぱり忘れちゃってたのね」って言って教えてくれた。
なんでも、私は明日の手術の失敗で、喉の動脈を切られて死んじゃう運命だったんだって。
その直前で、「狭間」って言う空間に呑み込まれて、私は一度、何処かの出口から、ミシェルのいる「ホーム」に辿り着いたの。
私は、元の世界に戻ることを選んだ。運命が決まる直前…つまり、私が今日眠りこんじゃうまでの時間を巻き戻して、もう一度生きる決断が出来るチャンスをもらったの。
だけど、私はそのことを全く忘れて、のんきにうたた寝なんかしてたわけ。
事情は分かったけど、なんの覚悟も無いのに生きるか死ぬか選べって言われても、即座にはこたえられなかった。
ミシェルはこう言った。「3分間だけ時間をあげるわ。部屋に戻って良く考えて」
私は自宅のベッドの上で目を覚ました。「なんだ夢か」と思って安心してたら、傍らに夢の中に出て来た猫が居た。
「ぼぅっとしてる場合じゃないわよ。あと2分30秒」って言われて、私は命の危機って言うのを悟ったわ。
私はあわてて靴を履いて、楽譜とかソーイングセットとか入った、学校鞄を抱きしめた。
いつもの習慣で、とっさにね。災難に遭うと、わけのわからないものを手に取っちゃうって言うけど、そんな感じ。
「さぁ、3分経つわ。選択して」と、ミシェルに言われた。
「私、生きたい!」って、ガラガラの声で答えたの。もう必死だったから、何も疑ってる余裕なんてなかった。
その途端、私はどこかで観た覚えのある森の中に立ってた。そう。この森のことね。
「狭間」の通過と「巻き戻し」を体験して、ギリギリの時間で「生きる」ことを選択した場合、こんなことが起こるんだってミシェルが言ってた。
ミシェルが、「付いてきて」と言って先に歩き始めた。
その後に従って行くと、私は、煙のにおいに気づいた。落ち葉を燃やしているにおいがしたの。
森が拓けると、動物や人間が、焚火を囲むようにしてごちゃごちゃに地面や岩の上に座ってた。
「よぉ。お嬢ちゃん」って、焚火の向こうから東洋人の男の子が言った。「結局、此処に来ちまったか」
「あなた、確か…ミノルって言ってたよね。管理人の…」と、私が湧き上がってくる記憶を頼りに言うと、ミノルは「その通り」と答えた。
ミシェルは、「後のことはミノルに聞いて。私は、別の仕事があるから」って言って、ミノルの背の向こうにあった茂みの、獣道の中に入って行った。
「さて、あんたの名前を改めて聞いておこうか」ってミノルが言ったの。前に来た時は、ミノルとしか話さなかったから、たぶん自己紹介みたいなものかなって思った。
「セーラ・ヘミング」って名乗った時、喉が治ってることに気づいた。
もし、私が「巻き戻し」のことをちゃんと覚えてて、執刀医を変えてもらうか、手術の日付を変えてもらうかすれば、外の世界での「死」は回避できたのかもしれない。
だけど、私はそのチャンスを、ただの日常ですっかり使い果たしちゃってたの。
こんなバカみたいなことある? って、私すっかり自信なくしちゃってたけど、ケイトが一生懸命励ましてくれて、みんなの前で歌えるくらいになったの。
ケイトったら、私より年上なのに、全然世の中のことなんて知らなくて、本の中の世界が本当にあると思ってるんだもん。
「きっと、あなたの巻き戻しの時間は、時間泥棒に盗まれちゃったのよ。だから、ギリギリまでなんにもわかんなかったんだわ」なんて、真顔で説得された時はどうしようかと思っちゃった。
でも、私も、そう思うことにしてる。
だって、「狭間の出口」は、動物とだって言葉の通じる世界だもの。もしかしたら、私の住んでた元の世界には、時間泥棒が本当に居たのかも。
ライアンが来てから、森の暮らしもだいぶ「普通」になってきたじゃない? だけどさ、ライオンのライアンが、後足で立って大工道具を器用に前足で使ってるところを想像してみて?
こんなおかしな世界があるなら、時間泥棒が本当に居る世界も、あってもおかしくないわ。
鞄はどうしたのかって? 布を作るようになってから、すごく役に立ったわ。3分間でセレクトしたにしては、上出来よ。
ホナミのカメラも、大事に取っておいてね。いつか役に立つときが来るかもしれないから。
それじゃ、ご飯の支度するね。今日はドングリのクッキーよ。大丈夫。灰汁はちゃんと取ってあるから、渋くないわ。
