Michele's Story 第1章

どうやら今日はひどくついていない日らしい。

自転車置き場に置いておいた自転車のタイヤの空気を抜かれ、徒歩で自転車を押しながら帰らざる得なくなった上に、外履きを盗まれ、

内履きのまま帰路についた。物憂く歩いていた時、十字路でバイクに激突された。

直にぶつかったのは自転車だったのだが、自転車のグリップがわき腹に抉りこみ、ブロック塀に叩きつけられた。俺はその痛みで道路に膝をついた。

バイクを運転していたやつはさっさと逃げ去り、衝突の瞬間を見ていない下校途中の他の生徒も、フレームの折れた自転車の横で脇腹を押さえている俺を一瞥し、

「あの人なにー?」

「腹でも痛くなったんじゃない?」

と、能天気にフラフラ歩いてゆく。

隣にある歪んだ自転車と、腹を押えている俺との関係性は、全く思い浮かばないらしい。

本当についていない。

おまけに、唯の打撲なら、痛みは数分間で治まるだろうが、何かおかしい。

「あなた大丈夫?」

と、声をかけてくれたのは、買い物帰り風の見知らぬおばさんだった。

「ちょっと…バイクにぶつかられて…」

と、説明する声を出す度に、わき腹が軋むように痛む。

すると、そのおばさんは、

「ちょっと痛むかもしれないけど」

と、俺の脇腹に触り、

「ああ、肋骨が折れてるわ。救急車呼びましょ」

と、「大根安いじゃない。二つちょうだい」と同じイントネーションで言った。

携帯電話を取り出し、おばさんは119番に電話したようだ。

テキパキと状況を説明し、二つ折り携帯をぱたんと閉じて、再び俺のほうを向いた。

「救急車も警察もすぐ来るって言ってたから…あなた、ちゃんと説明できる?」

「それが…結構…痛いんですよね」と、俺が声を振り絞ると、おばさんは携帯を再び開き、時計を見たらしく、

「夕飯の時間に遅れちゃうわね」と呟いた。

そして首だけ俺のほうにむき、

「声が出るなら大丈夫よ。しばらくじっとしてなさい。救急車の人に、よく説明してね」

と言い残し、見知らぬおばさんは見知らぬ何処かへ帰って行った。

友人と言うものが通りかかれば良いのだが、あいにく、みんな、部活中だ。

帰宅部になった事を少し恨みながらうずくまっていると、どこかから視線を感じた。

体をねじるのが難しいので、首だけを回してみると、後ろのブロック壁の上に、猫がいた。

真っ黒な毛並みと金色の目と白いひげの、よく居るタイプの黒猫だ。

猫か…と思って俺が視線を外そうとすると、

「狭間に入りそこねたわね」

と、猫が日本語を発した。

もちろん、俺の頭がどうかしたわけではない。猫は、ちゃんと口を動かして流暢に喋っている。

「どうする? このまま助けを待って、時間切れであの世に逝く?」

猫が何を言っているのか理解する前に、猫が喋っていると言う事に度肝のを抜かれて、言葉が出てこない。

猫は呆れ返ったような表情をして、

「上着を脱いで、シャツをめくって見なさい」

と俺に言った。

脇腹の痛みだけでなく、全身がむち打ちになっているようで、制服の上着を脱ぐのにも時間はかかったが、

なんとか半身を脱いで、わき腹を覆っているシャツをめくった。

その途端、思ったより事態は急を要する事を知った。

肋骨が折れていると言われた脇腹は、恐らく内出血で紫に変色し、その痣はじわじわと広がっているように見えた。

「内臓に骨の破片が刺さってるのよ」

と、律義に猫が解説してくれた。

「救急車が、こんな目印の無い所を見つけるまで、あなたの命が持つとは思えないけど?」

言われてみれば、確かにこの十字路は、近くに店も無ければ車の通りも無い。帰宅部の連中はあらかた帰ってしまったらしく、下校途中の生徒の姿も見られない。

本当に今日はついていない。

「あたし、あなたを迎えに来たのよ」

と、猫が突飛な事を口にした。

誰も見ていないし、もうこの際だ。猫とでも話してしまえ。

半ばなげやりに、「俺は17であの世行きか」と答えると、

「違うわよ。生き延びれる場所に迎えに来たの」

と言って、猫はブロック塀の上からしなやかにアルファルトの上に降りた。

「狭間に入りそこねた者には、巻き戻しの選択権は無いんだけど」

よく喋る猫だが、言っている事はちんぷんかんぷんだ。

「助かりたいなら、30秒だけ目をつむって」

この部分だけは、かろうじて理解できた。そりゃ、俺だって「Too Young To Die」に、死人役で出演しても嬉しくはない。

落ち着いてられる状態ではないので、正確な30秒がどのくらいかは分からなかったが、とにかくぎゅっと目をつむった。

途端に、ふわりと体が沈み込むような感覚がした。ゆっくりと、息の出来る水の中を沈んでゆくような感じだ。

思わず、瞼を緩めそうになったが、

「まだよ。底に着くまで」

と猫の声が飛んできて、俺は再び瞼に力を込めた。

沈み込んでゆく最中、脇腹の痛みが少しずつ和らいでいくのが分かった。

と、同時に、どこかに放り出されるように、ドサッと背中から柔らかい地面に着地した。

「もう良いわ。目を開けて」

と猫の声に言われた通り目を開けると、空をふさぐ枝葉のモザイク模様が遠くに見えた。

しけった地面の感触が不快で、むちうちの痛みも、わき腹をかばうのも忘れて起き上がると、どうやら腐葉土の上に横たわっていたようだった。

周囲は木と岩と草しか見えない。風が少しあるらしく、サワサワと木の葉の擦れあう音がする。

「ここがあなたの持ち場よ」

と、猫がまた意味不明な事を言った。

「あなたの仕事は、狭間に入りこんでしまった者に、元の世界に帰るか、この森に残るかを選ばせること」

猫は当たり前のようにそう唱え、森の一方に首を向けた。そこには、灌木の間に細い獣道がある。

「この先を進んでゆくと、狭間の入口に戻れるわ。でも、あなたが戻っても、死んじゃうだけだけどね」

脅し文句を突き付けられ、俺は何気なく脇腹を触った。痛みがない。全身のむち打ちも治っている。

シャツをめくってみると、紫色の痣は消えていた。

「怪我は治っているでしょ? それが仕事の報酬よ」

猫はすらすらと喋り続けた。

「狭間の入口に舞い戻れるのは、狭間に入りこむ直前までを覚えている者だけ。忘れている者は、戻れる見込みはないわ。

あなたみたいに、狭間に入りそこねた者は、私が連れて来るから安心して。その時、戻れば死んじゃうことを教えてあげてね。

でも、狭間に入った直前まで巻き戻せるのは、どうして狭間に入ったのか分からないものだけだから、よく注意して…って、一度に言っても分からないわよね」

「いや、ホント、全く」と、俺は機械のように返事を返した。

「詳しい話はまたいずれにしましょ」と言って、喋る猫は獣道のほうに歩きだした。

そして、ふと気づいたように立ち止まって振り返り、尋ねかけてきた。

「あなた、名前は?」

ようやく分かりやすい言葉をかけられ、俺はため息をついてから答えた。

「ミノル。あんたは?」

猫は、快活に答えた。

「ミシェルよ。よろしくね」

こうして、俺は何処ともしれぬ森の中に、一人残された。