どうやら今日はひどくついていない日らしい。
自転車置き場に置いておいた自転車のタイヤの空気を抜かれ、徒歩で自転車を押しながら帰らざる得なくなった上に、外履きを盗まれ、
内履きのまま帰路についた。物憂く歩いていた時、十字路でバイクに激突された。
直にぶつかったのは自転車だったのだが、自転車のグリップがわき腹に抉りこみ、ブロック塀に叩きつけられた。俺はその痛みで道路に膝をついた。
バイクを運転していたやつはさっさと逃げ去り、衝突の瞬間を見ていない下校途中の他の生徒も、フレームの折れた自転車の横で脇腹を押さえている俺を一瞥し、
「あの人なにー?」
「腹でも痛くなったんじゃない?」
と、能天気にフラフラ歩いてゆく。
隣にある歪んだ自転車と、腹を押えている俺との関係性は、全く思い浮かばないらしい。
本当についていない。
おまけに、唯の打撲なら、痛みは数分間で治まるだろうが、何かおかしい。
「あなた大丈夫?」
と、声をかけてくれたのは、買い物帰り風の見知らぬおばさんだった。
「ちょっと…バイクにぶつかられて…」
と、説明する声を出す度に、わき腹が軋むように痛む。
すると、そのおばさんは、
「ちょっと痛むかもしれないけど」
と、俺の脇腹に触り、
「ああ、肋骨が折れてるわ。救急車呼びましょ」
と、「大根安いじゃない。二つちょうだい」と同じイントネーションで言った。
携帯電話を取り出し、おばさんは119番に電話したようだ。
テキパキと状況を説明し、二つ折り携帯をぱたんと閉じて、再び俺のほうを向いた。
「救急車も警察もすぐ来るって言ってたから…あなた、ちゃんと説明できる?」
「それが…結構…痛いんですよね」と、俺が声を振り絞ると、おばさんは携帯を再び開き、時計を見たらしく、
「夕飯の時間に遅れちゃうわね」と呟いた。
そして首だけ俺のほうにむき、
「声が出るなら大丈夫よ。しばらくじっとしてなさい。救急車の人に、よく説明してね」
と言い残し、見知らぬおばさんは見知らぬ何処かへ帰って行った。
友人と言うものが通りかかれば良いのだが、あいにく、みんな、部活中だ。
帰宅部になった事を少し恨みながらうずくまっていると、どこかから視線を感じた。
体をねじるのが難しいので、首だけを回してみると、後ろのブロック壁の上に、猫がいた。
真っ黒な毛並みと金色の目と白いひげの、よく居るタイプの黒猫だ。
猫か…と思って俺が視線を外そうとすると、
「狭間に入りそこねたわね」
と、猫が日本語を発した。
もちろん、俺の頭がどうかしたわけではない。猫は、ちゃんと口を動かして流暢に喋っている。
「どうする? このまま助けを待って、時間切れであの世に逝く?」
猫が何を言っているのか理解する前に、猫が喋っていると言う事に度肝のを抜かれて、言葉が出てこない。
猫は呆れ返ったような表情をして、
「上着を脱いで、シャツをめくって見なさい」
と俺に言った。
脇腹の痛みだけでなく、全身がむち打ちになっているようで、制服の上着を脱ぐのにも時間はかかったが、
なんとか半身を脱いで、わき腹を覆っているシャツをめくった。
その途端、思ったより事態は急を要する事を知った。
肋骨が折れていると言われた脇腹は、恐らく内出血で紫に変色し、その痣はじわじわと広がっているように見えた。
「内臓に骨の破片が刺さってるのよ」
と、律義に猫が解説してくれた。
「救急車が、こんな目印の無い所を見つけるまで、あなたの命が持つとは思えないけど?」
言われてみれば、確かにこの十字路は、近くに店も無ければ車の通りも無い。帰宅部の連中はあらかた帰ってしまったらしく、下校途中の生徒の姿も見られない。
本当に今日はついていない。
「あたし、あなたを迎えに来たのよ」
と、猫が突飛な事を口にした。
誰も見ていないし、もうこの際だ。猫とでも話してしまえ。
半ばなげやりに、「俺は17であの世行きか」と答えると、
「違うわよ。生き延びれる場所に迎えに来たの」
と言って、猫はブロック塀の上からしなやかにアルファルトの上に降りた。
「狭間に入りそこねた者には、巻き戻しの選択権は無いんだけど」
よく喋る猫だが、言っている事はちんぷんかんぷんだ。
「助かりたいなら、30秒だけ目をつむって」
この部分だけは、かろうじて理解できた。そりゃ、俺だって「Too Young To Die」に、死人役で出演しても嬉しくはない。
落ち着いてられる状態ではないので、正確な30秒がどのくらいかは分からなかったが、とにかくぎゅっと目をつむった。
途端に、ふわりと体が沈み込むような感覚がした。ゆっくりと、息の出来る水の中を沈んでゆくような感じだ。
思わず、瞼を緩めそうになったが、
「まだよ。底に着くまで」
と猫の声が飛んできて、俺は再び瞼に力を込めた。
沈み込んでゆく最中、脇腹の痛みが少しずつ和らいでいくのが分かった。
と、同時に、どこかに放り出されるように、ドサッと背中から柔らかい地面に着地した。
「もう良いわ。目を開けて」
と猫の声に言われた通り目を開けると、空をふさぐ枝葉のモザイク模様が遠くに見えた。
しけった地面の感触が不快で、むちうちの痛みも、わき腹をかばうのも忘れて起き上がると、どうやら腐葉土の上に横たわっていたようだった。
周囲は木と岩と草しか見えない。風が少しあるらしく、サワサワと木の葉の擦れあう音がする。
「ここがあなたの持ち場よ」
と、猫がまた意味不明な事を言った。
「あなたの仕事は、狭間に入りこんでしまった者に、元の世界に帰るか、この森に残るかを選ばせること」
猫は当たり前のようにそう唱え、森の一方に首を向けた。そこには、灌木の間に細い獣道がある。
「この先を進んでゆくと、狭間の入口に戻れるわ。でも、あなたが戻っても、死んじゃうだけだけどね」
脅し文句を突き付けられ、俺は何気なく脇腹を触った。痛みがない。全身のむち打ちも治っている。
シャツをめくってみると、紫色の痣は消えていた。
「怪我は治っているでしょ? それが仕事の報酬よ」
猫はすらすらと喋り続けた。
「狭間の入口に舞い戻れるのは、狭間に入りこむ直前までを覚えている者だけ。忘れている者は、戻れる見込みはないわ。
あなたみたいに、狭間に入りそこねた者は、私が連れて来るから安心して。その時、戻れば死んじゃうことを教えてあげてね。
でも、狭間に入った直前まで巻き戻せるのは、どうして狭間に入ったのか分からないものだけだから、よく注意して…って、一度に言っても分からないわよね」
「いや、ホント、全く」と、俺は機械のように返事を返した。
「詳しい話はまたいずれにしましょ」と言って、喋る猫は獣道のほうに歩きだした。
そして、ふと気づいたように立ち止まって振り返り、尋ねかけてきた。
「あなた、名前は?」
ようやく分かりやすい言葉をかけられ、俺はため息をついてから答えた。
「ミノル。あんたは?」
猫は、快活に答えた。
「ミシェルよ。よろしくね」
こうして、俺は何処ともしれぬ森の中に、一人残された。