私には記憶がない。
正確に言えば、この森の中に来る以前の記憶がないのだ。
まるで眠っている間に観た夢よりも朧気な、いや、消滅してしまったかのように思い出せないのだ。
だが、私は一揃いの道具を持っていた。そして、その道具をどのように使うかも知っていた。
私は、一本の木を、その道具のひとつで伐り始めた。
それは随分原始的な道具だった。刃の付いた金属の塊が棒の先につけてあり、振りながら木の幹に刃を打ち付けて、木を切り倒すのだ。
幹が半分以上えぐられると、木は、メキメキと音を立てて向こう側に倒れた。
その物音を聞きつけたのだろう、誰かが私の近くに来るのが分かった。
「誰だ?」と、私は木を切る手を止めて、声をかけた。
木々の間から姿を現したのは、まだ小僧っ子の人間だった。
「何かと思ってな。いきなり斧の音がしたから」と小僧っ子は言った。
「木を切る音が珍しいか」と、私は言いながら、私は次の木に向かって作業を続けた。「よほど静かな森なのだろうな。ここは」
「かなりな。鳥の声すら聞こえないんだよな」と、小僧っ子は言って、出来たばかりの切り株に腰を掛けた。「クアイは時々鳴き声っぽくしゃべるけど」
「クアイ?」と、私は聞き返した。
「俺の相棒のコンドルの名前だよ。あんたの名前は?」と、小僧っ子は生意気にも自分から名乗らずに言った。
「名を名乗るなら、まずお前からだろう」と私はたしなめるように言い返した。
「あー、順番が狂っちまうけど、俺はミノルってんだ。で、あんたは?」
「分からん」と言って、私は木を伐り続けた。「ここに来るまでの事は、何一つな」
「それじゃぁ、帰るにも帰れねーな」と、ミノルと名乗った小僧っ子は眉間にしわを寄せた。
帰る? 何処へ? と、私の頭に疑問が浮かんだが、それよりも私は木を切ることが己の仕事と知っていた。
「名前も思い出せないとなると…」
と、おせっかいな小僧っ子は何か思案しているようだった。
「俺が名前をつけなきゃならないんだけど、そうなると、確実にこの森の中だけにしかいられなくなるぞ。それでも良いか?」
「樹木があるなら、何処に居ようと同じだ」と私は答えた。
「じゃぁ、今からあんたはライアンだ」
小僧っ子がそう言った時、私の頭の中を一瞬何かがかすめた。だが、その思考はやはり瞬く間に消えてしまった。
私は2本目の木を伐り終わり、次の作業にかかった。木を加工しやすくする工程だ。
「俺や他の連中は、向こうのほうの焚火の近くにいる。切り株作るのに飽きたら、ちょっと顔出してくれよ。紹介してやるからさ」
ずいぶん横柄な言い方だったが、その声には労わるような響きがあった。
私は返事を返さずに、木の皮を削ぐ作業を始めた。
仕事は順調に進んだ。何度木を伐り倒そうと、樹木を加工しようと、全く疲れないからだ。
しかし、私は4~5本の樹木の皮をはいだところで、ふと手を止めた。
あの小僧っ子は、焚火があると言っていた。丁度むしり取った木の皮を持って行ってやろうと思い立ったのだ。
薪も不足しているだろう。私は打ち下ろした枝を薪にしやすい大きさに切り分け、縄でくくって肩に担ぎあげた。
まだ生木だが、干しておけば薪として使えるだろう。
私は、何故自分が、見知らぬ人間のために仕事の時間を割いているのかは分からなかった。ただ、そうすべきだと思ったのだ。
片手に木の皮を抱え、もう片方の手は肩の薪に添え、私は小僧っ子の去って行った方角へ歩いて行った。
しばらく進むと、木の葉を燃やすような匂いが漂ってきた。その匂いをたどって行くと、少々開けた場所に出た。
「よぉ。思ったより早かったな」と、さっきの小僧っ子が焚火の向こうで片手をあげた。
その周りには、数人の人間と数十頭の動物がいた。全員、一定の距離を取って、自分に居心地の良い場所でくつろいでいる。
「紹介する。大工のライアンだ」と、小僧っ子が言った。
「ライオンじゃん」と、一人の人間が言った。黒っぽい服を着ている。小僧っ子よりだいぶ小柄だ。匂いからして雌だろう。
「俺のネーミングが気に食わないのかよ」と、ふざけた調子で小僧っ子が言い返した。
「いや、そうじゃなくて」と、先ほどの小娘が言い募った。「普通にライオンじゃん。二足歩行してるけど。大工ってどう言う…」
「穂波も少しは慣れてくれ」と、小僧っ子が言った。「大工道具持って働いて人語をしゃべる以上、大工って言ったら大工なんだよ」
「そうか」と私は言った。忘れ去っていた記憶の断片が、頭の中を鮮明にさせた。「私は働くためにここに来たのだ」
「ようやく思い出せたようね」と言いながら、茂みに隠れていた黒猫が顔をのぞかせた。私はその猫の名前を知っていた。
「ミシェル。お前か」と私は旧友に呼び掛けた。
「新しいホームへようこそ、ライアン」とミシェルは言った。
そうなのだ。そこが何処かまでは思い出せないが、私はかつてここと似た場所で、人間や鳥獣類に混じり、大工として働いていた。
新しいホームに居る者達が、まだ若く幼い者ばかりで、技を身に着ける機会も失っていると聞きつけ、私はこのホームへ移住することを志願した。
私は自分の名前と、元のホームの記憶の一部がリセットされることを条件に、この若造達に森の中で暮らす術を与えに来たのだ。
胸のつかえがとれるような思いがし、私は危うく薪を取り落とすところだった。
こうして、私は教師として新しいホームに住み着いた。