Robert

霧深い馬車道を、ゴロゴロと車輪を鳴らしながら、馬車が走っていきます。

その日、ロバートは急いでいました。

すっかり真っ白な髭をちゃんと整え、上等な上着を着て、ピカピカの靴を履いて、手には真っ赤なバラの花束を持っていました。

その日は、ロバートの人生に50年連れ添ってくれた妻との結婚記念日でした。

バラの花束は、あいさつ代わり。50年目のとびっきりのプレゼントとして、妻の目の色と同じ大粒のエメラルドをあしらったネックレスを、懐に忍ばせていました。

帰る前の電話をかけたところ、妻はロバートの大好物のターキーを用意していてくれると言っていました。

まるでクリスマスみたいだな、とロバートは心の中で思い、思わず笑みがこぼれました。

馬車が通り過ぎた音を確認してから、ロバートは道を渡ろうとしました。

霧のせいか、それともロバートの耳が衰えていたせいか、路地を勢いよく曲がってきた馬車に、ロバートは気づきませんでした。

馬車は急停止しようとしましたが、突然手綱を引かれた馬達が驚いて躍り上がり、甲高いいななきが響きました。

その瞬間、ロバートの存在は彼の世界から掻き消えました。


キッチンでターキーの焼き上がりを待っていたロバートの妻は、「何を焼いているのかしら」と思いました。

オーブンの中を見れば、もう少しで焼きあがりそうなこんがりしたターキーがあります。

どう見てもひとり分にしては大きいので、「誰かお客様が来るのかしら?」と思いましたが、思い当たる節がありません。

家の中を見回しても、「いつも通りに」一人住まいの様相です。

ロバートの妻は、友人に電話をかけました。

「あら。奥様? お夕飯はまだかしら? なんだったら、うちに来て下さらないかしら。私ったら、大きなターキーなんて買っちゃって」

それから、ロバートの妻は、夫のことを思い出すことはありませんでした。


急降下して行く感覚に、ロバートは絶句しました。

何が起こったんだ?!

疑問が頭をよぎると同時に、妙に柔らかい地面に着地しました。

手から離れたバラの花束と、頭にのせていたシルクハットが、遅れて苔の地面にパサリと落ちました。

帽子を頭にのせなおし、くしゃくしゃになった髪や髭をなおしながら、ロバートは辺りを見回しました。

周辺は、360度を崖に囲まれており、崖の上には木々の梢が見えました。

このフカフカした地面は、恐らく腐葉土の堆積したものだな、おかげで命拾いしたとロバートは思いました。

「落ち着いているね。これなら話しやすい」と、背中のほうからガラガラした女性の声がしました。

振り返ると、髪が地面につきそうなほど長い、ほつれた服を着た、絵本に出てくる「魔女」のような女性が歩いてくるところでした。

「あんた、名前は?」と、女性は聞きました。

「ジョナサン・ロバートと申します」と、ロバートは丁寧に答えました。「あなたのお名前は?」

「シェンナで通ってるよ」と、女性は少し荒っぽい言葉で言いました。「あんた、ここに来る前にどこにいたか、思い出せるかい?」

「会社から、家に帰る途中でした」と、ロバートは答えました。「馬車にひかれかけて…」

「それ以上は聞かなくても良い」と、シェンナはロバートの言葉を遮りました。

「状況の認識と分岐点がギリギリだね」と、シェンナは独り言のように言いました。「さて、帰せるものかどうか…」

「ここが何処かは存じませんが」と、ロバートは落ち着いて言いました。「帰れるのなら、妻の待つ家に」

「じゃぁ、一度様子を見に行ってごらん」とシェンナは言いました。

そして、空に向けてピーッと指笛を吹きました。

白い大鷲が森の中から姿を現し、崖の中に弧を描きながら降下してきました。

大鷲の足につかまるよう指示され、ロバートが言われたとおりに大鷲の両足につかまると、鷲は重さなど全く感じないと言いたげに、軽々と飛び立ちました。


見慣れた家の扉が目の前にあります。ロバートは、上着の上から、ネックレスをしまっている胸ポケットを押さえました。

まるで初めて会う女性にプロポーズにでも来たかのように、緊張していました。

家の中から、楽し気な笑い声がしました。

窓から中を見ると、ロバートの妻と、その友人である近所のご婦人が、ターキーを食べながら談笑していました。

「あら? 誰か来たようよ」と、ご婦人のほうの口が動きました。

ロバートの妻が、席を立ってナプキンをテーブルに置き、玄関に出てきました。

そしてこう言いました。「あら…? どちら様でしょう?」

その言葉を聞いて、ロバートは覚悟を決めました。

「私は、50年間、あなたを想っていた者です」と言って、ロバートは胸ポケットからネックレスを取り出し、妻に渡しました。

「私は遠くへ旅立たねばなりません。最後の思い出に、これを残します。私はこれからも、いつもあなたを想っております」

それだけ言うと、呆然としたような表情をしている妻を残して、ロバートは家から去りました。


どのように崖の中に戻ってきたのか、ロバートは覚えていませんでした。

その表情を見たシェンナが、「どうやら間に合わなかったようだね」と言ったのに気づくと、彼は崖の岩場の陰に隠れた洞窟の中に居ました。

「たまにこう言うことがあるんだよ。あんまりはっきり覚えすぎていて、時間の余裕のない場合がね」

そう言いながら、シェンナは何やらずんぐりした器の中の緑の液体を、竹でできた小さな泡だて器のようなもので、泡立てていました。

「ぼんやりしてないで、座りなよ」と、シェンナは岩でできたバーカウンターのような椅子の一つを指さしました。

泡立った緑色の液体の入った器を、椅子に座ったロバートの前に置くと、シェンナは小皿に乗った小さな花の形のお菓子を差し出しました。


数日が経ったのか、数年が経ったのかはわかりません。ロバートもすっかり洞窟の暮らしに慣れました。特に、伝言好きのオウムとはとても仲が良くなりました。

ある日、ロバートは作業員になる頭数がそろったことを確認してから、こんなことを言いました。

「シェンナ嬢。この崖をさらにくりぬいて、皆の住めるアパルトメントにしたものではないかね」

「そりゃ、ありがたい提案だ」と、シェンナは言いました。「洞窟暮らしも、物憂いだろうからね」

その日から、シェンナの家族達は暇を持て余すことが無くなりました。