セイレーンの声 1

手続きを済ませ、チケットと引き換えに通行料を払ったリオナは、待合室で船を待っていた。

鉱石をつけた杖を左手に持ち、傍らには、少々の保存食と、レモンとハーブを漬け込んだ水、それから一冊の本が入った鞄を置いている。

「船に乗るの?」リオナにとりついている幼霊、エリックが声をかけてきた。エリックの声は、リオナにしか聞こえない。

「そうよ。怖い?」リオナは心の声で訊ねた。

「ううん。この波止場は来たことがあるんだ。とっても良い造船所が近くにあるから、そこの船に乗るのかと思って」と、エリックは辺りを見回しながら言った。

窓から、一隻の船が波止場にとまっているのが見え、「あの船かな?」とエリックは窓まで移動した。

昼間のエリックの姿は、リオナにしか見えない光の一粒だ。窓から射す光に紛れ込みながら、エリックは嬉しそうに船を眺めている。

「やっぱり、あの造船所の船だ」とエリックは言って、リオナの右肩に戻ってきた。

「どんな船?」リオナはまた心の声で問いかけた。

「すごくかっこいい」エリックは無邪気に言った。語彙が単純だが、幼くして霊魂になったエリックには、これから修業してゆかなければならないことは、生きている人間以上にある。

「隣の国まで行くんだよね?」確かめるようにエリックは言う。「リオナは言葉分かる?」

「あの国は3ヶ国語まで通じるはずよ。この言葉でも大丈夫」リオナは心の声で返事をした。

「なーんだ。通訳してあげようと思ったのに」と、残念そうにエリックは言った。

「分からない言葉で話しかけられたら、お願いするわ」と、リオナが心で返事をすると、活躍の機会を与えられたエリックは嬉しそうに「任せて!」と答えた。


通行所の係員が、船の準備が出来たことを乗客に告げた。呼び出されるチケットの順番に従って、一人一人と船に乗り込んでいく。

一等席は満室のようだ。二等席を取っていたリオナの番号が呼び出され、リオナは杖と鞄を持って、船に乗り込んだ。

扉を開けると、潮の香りが漂う船室は、4人部屋になっていた。

先に乗り込んでいた品の良さそうな女性が、「コンニチハ」と片言の言葉で挨拶をしてきた。

「こんにちは」と、リオナはようやく声を出して返事をした。「一泊の間、よろしくね」

「ドウゾヨロシク」と、女性は微笑みを浮かべて答えた。

先にいた女性が、両脇にある2段ベッドの右下を使っていたので、リオナは左上を選んだ。

カーテンはあるが、斜めの位置を取れば多少はプライバシーも守れるだろう。

リオナが一人なら、そんなことも気にしなくて良いかもしれないが、何せエリックがいる。

夜のエリックは、少し生前の姿が浮かび上がって見える時がある。ほとんどリオナにしか見えない姿だが、「力を持った者」には、はっきり見えてしまうこともあるだろう。

これから精霊として成長して行く段階で、姿形は消え失せるかもしれない。だが、今はそれにはまだ早い。

外で汽笛の音がした。船出らしい。

部屋にはさっきの女性とリオナの2人だけだ。ニ等席が満室でなくてよかった。リオナは安心してベッドに寝ころび、持ってきた本を開いた。


リオナが読書を始めたので、エリックはしばらく船の中を移動してみることにした。

ドアをすり抜けて客室を出ると、木造りの廊下が続き、廊下の下に行ってみると、三等席にあたる、雑魚寝の部屋があった。

そこは人でいっぱいで、なんだかむさくるしい。

エリックはさらに下に行ってみた。浸水を防ぐために細かく仕切られた部屋が並んでいた。特に面白い物もない。

一等席のほうに行ってみると、簡素ながら、しっかりした作りの客室が、一人につき一部屋備えられていた。

エリックが偶然入った部屋は、女性の部屋だった。女物の旅行バッグを枕元に置いて、動きやすそうなドレス姿の女性が、仮眠を取っている。

自分が霊魂だと言う自覚がまだ薄いエリックは、起こしちゃいけないと思ってさらに上の階へ行ってみた。

船のデッキに出た。適度な風の力を受け、帆は十分に張りつめている。波は穏やかで、働いている船乗り達も、キリキリと仕事をこなしていた。

生前に船で働いていたエリックは、操舵室に興味を持った。生きていた頃は、一度も入らせてもらえなかった部屋だ。

壁をすり抜けて操舵室に入ると、船長と航海士が、何か話していた。

「今日は落ち着いたもんですね」と、航海士が言った。「このまま何もなければ良いですけど」

「昼間の間に、岬を通り過ぎれればな」と船長が言った。「この間沈没した船も、あの辺りで捕まっている」

「奴等にですか」と、航海士が言った。

「あの連中が、本当にマナティだったらどれだけ助かることか」と言って、船長は声を潜めた。「待て。何かいるぞ」

振り返った船長に見られそうになり、エリックはテーブルの下に隠れた。

船長の足が、ゆっくりとエリックのほうに近づいてくる。エリックは姿を見られる前に、床をすり抜けて二等室まで戻った。

どうやら、この船の船長は、少しばかり勘の鋭い物らしい。


エリックがリオナの元に戻ると、その慌てぶりに気づいたらしく、リオナが本から目を外してエリックを見た。

「ここの船長、僕のことが分かるみたい」と、エリックは言った。

「気配を消す方法を覚えないとね」リオナは心の声で答えた。「私の力に紛れてばかりもいられないでしょ?」

「船長と鬼ごっこしてきて良い?」エリックは良いことを思いついたと言う風に言う。「気配を消す練習になるから」

「私が船から落っことされない程度にしておいてね」とリオナが心で返事をすると、エリックは「わかってるって」と言って、楽しそうにまた上の階へ飛んで行った。

「スミマセン」と、ベッドの横から同室の女性の声がした。「スコシ、オハナシ、シマセンカ?」

リオナは本を閉じ、「良いわよ」と返事をした。

リオナが下のベットに腰かけ、同室の女性と向かい合うと、女性は自己紹介を始めた。

「ワタシ、ナターシャトイイマス。コレカラ、コキョウノ、アルバルニ、カエルトコロデス」

「私はリオナ」とリオナは聞き取りやすいよう、短く区切りながら答えた。「調べものに行くの。あなたの故郷の近くに」

「アナタハ、マジュツシナノデスカ?」リオナのローブ姿を見て、ナターシャは聞いてきた。

「その通りよ。まだ修業中だけどね」とリオナは言った。

「トテモ、アンシンデス。マジュツシガ、オナジフネニイルダケデ」と、ナターシャは言った。修業中の部分はよく聞き取れなかったらしい。

「どう言う事?」と、リオナは聞いた。

「コノ、スウネン、ルーディノ、ミサキヲトオルフネガ、ツギツギニ、シズンデイルンデス」ナターシャは、不安げに言った。

「ルーディの岬って、これから通る場所でしょ?」と、リオナは聞き返した。「原因は?」

「ミサキノマワリニ、ミエナイイワガアルカラダト、イワレテイマス」ナターシャは慎重そうに答えた。「ケレド、ホントウハ、マモノニオソワレテイルト、イウハナシデス」

「どんな魔物?」と、リオナは短く聞いた。

「ワタシハ、フタツキキマシタ。ヒトツハ、アタマガニンゲンで、カラダガトリノ、ヒトヲタベルモノ。モウヒトツハ、アタマガニンゲンデ、カラダガサカナノモノ」

「セイレンのこと?」と、リオナは聞いた。

「ソウデス」と、ナターシャは答え、「カレラハ、ヨルニナルト、アラワレテ、ウタゴエト、カゼヲアヤツッテ、フネヲ、イワニブツケルノデス」

「そこまで分かってるなら、討伐隊も出るでしょ?」と、リオナはつい普通にしゃべってしまった。

「トーバツタイ?」ナターシャが聞き返してきた。

「魔物を退治する軍隊のことよ」聞き取りやすいように、ゆっくりとリオナは言いなおした。

「タシカニ、タイジニハ、ナンニンモイキマシタ」と、ナターシャも声を潜めてゆっくり話した。「ケレド、サガシテモ、セイレンハ、ミツカラナイノデス」

「それじゃ、唯の船乗りの迷信で終わっちゃうわね」リオナは言った。「あなたは誰からその話を聞いたの?」

「フナノリヲシテイル、ワタシノオジイサンニデス」ナターシャは隠さずに言った。「セイレンモ、タダノ、フナノリノフネカ、タイジニキタフネカ、ワカルノダトイッテイマシタ」

これは、安楽な船の旅とは行かなそうだ、とリオナは心の中で思った。「もし、セイレンに遭うことがあったら、出来る限りのことはしてみるわ」と、リオナはナターシャを勇気づけるように言った。

「アリガトウゴザイマス。ワタシ、トテモアンシンシマシタ」と言って、ナターシャは胸をなでおろした。