セイレーンの声 2

左上の二段ベッドに戻り、持ってきた食料の中から、干した果物を食べていると、エリックがはしゃぎながら戻ってきた。

「すごいよ。あの船長。僕が棚の中に隠れても、気配が分かるんだ」と言って、リオナの右肩にとまった。

「どうやって逃げてきたの?」と、リオナは食事を摂りながら心の声で聞いた。

「お茶の入ったポットの中に隠れたんだ。そしたら、さすがに見つけられなかったみたい」すっかりエリックはかくれんぼ気分だ。

「外はどんな様子?」リオナがエリックに聞くと、事情を知らないエリックは、「もうすぐ日が沈むよ。風も十分あるから、夜の間には岬を越えられるんじゃないかな」と明るく答えた。

「最強のバッドタイミングね」リオナは心の声で言いながら、杖を片手にニ段ベッドから降りた。「エリック、一仕事しに行くわよ」

「どうしたの?」不思議そうにエリックは問いかけた。

「あなたの敵討ちに行くのよ」とリオナは心の声で答えて、客室を出ようとした。

「リオナ。ドコヘ、ユクノデスカ?」と、ナターシャが声をかけてきた。

「おまじないをかけにね」とリオナは声を出して答えた。ナターシャが、胸の前で神に祈る三十字を切った。「ドウカ、キヲツケテ」

「ありがと」と答え、リオナはエリックを連れて甲板に向かった。


甲板に出ると、日差しは少し茜色に成りかけていた。船乗り達が心配そうに、ちらりちらりと西空を見る。

「船長は何処?」リオナは小声でエリックに聞いた。「魔獣除けを施すにも、許可が必要だわ」

「こっちだよ。操舵室」とエリックは答え、案内するように先に飛んで行った。

その途端、操舵室の扉がバッと開き、中から恰幅の良い船長の服を着た男が出てきて、分厚い手でエリックをつかんだ。

「ようやく捕まえたぞ。この性悪め」と船長は言った。「空き瓶に封じ込めて、海に捨ててやる」

「待って。その子は私の連れよ」リオナは船長に駆け寄った。「あなたに危険を知らせるように言ったの」と、うまく取り繕った。

「なんだ。魔女か?」と、船長はエリックをつかんだままリオナのほうを見た。「こいつが、さっきから操舵室をうろうろしてやがったんだ」

「ごめんなさい。まだ幼霊だから、ちょっと悪戯好きなのよ」リオナはそう言ってから、本題を話し始めた。「もうじき、セイレンの出る海域に入るんでしょ?」

「ほう。都合の分かる魔女様だ」船長はおどけて言った。「国の連中はマナティの群れだって言ってるくらいだがね」

「冗談言ってる場合じゃないわ」リオナは真剣に話を続けた。「船に魔獣除けの呪法をかけさせてほしいの。相手の数によっては、おまじない程度にしかならないかも知れないけど」

「その呪法にどのくらいかかる?」船長も真面目な顔をして聞いてきた。

「甲板に魔法陣を描いて、船首と船尾にちょっと手を施すだけよ。日没までには、なんとかなるわ」

「その魔法陣はデッキブラシで落とせるのか?」船長はむすっとした顔で聞いてきた。

「術を解けばね。呪法が利いてる間は、かすれもしないわ」リオナは簡単に説明し、必要なことを聞き始めた。「この船の名前は?」

「エルシーネ号だ」と船長は言った。「海の女神の名前だ。船首に行けば、彫刻像がある」

「分かったわ。その子、放してくれる? 手伝ってもらうから」と言って、リオナは船長の手の中でもがいているエリックを指さした。

「次に船の中をうろつかせたら、あんたも一緒に海に捨てるからな」船長は言って、放り投げるようにエリックを放した。


「エリック。初仕事よ」と言いながら、リオナは内ポケットから携帯用のチョーク入れを取り出した。「私が描いた通りの魔法陣を、船首と船尾に描いてきて。女神像の両横に」

「分かった」おしおきを免れたエリックは、リオナが甲板に描き始めた大きな赤い魔法陣を暗記した。

リオナの服装と描かれて行く魔法陣から、船乗り達も事情が分かったらしく、誰もリオナを止める者はいなかった。むしろ、邪魔になる樽や木箱を避けて、場所を空けてくれた。

魔法陣が仕上がると、リオナがエリックにアイサインを出した。エリックはすぐに船首に向かった。

船首の女神像の両横に、エリックが指先で魔法陣を描くと、魔法陣の形をした光の痕が残った。

「これで良いのかな?」と独り言を言って、エリックは船尾にも同じように魔法陣を描いた。

「出来たよ」と、エリックがリオナに声をかけると、リオナは甲板に描いた魔法陣の真ん中にかがみこみ、呪符のタトゥーを施した右手を魔法陣ついて、魔法陣に力を送るスペルを唱えた。

リオナの右腕のタトゥーが、一瞬紫色に光り、魔法陣全体に波のような光が行き渡った。

船首と船尾に描かれた光の魔法陣も、一瞬強く輝いた。光は船全体を包み込み、バチバチと音をたてた。

「こりゃ見事なもんだ」様子を見ていた船長が言った。「風は入るのか?」

「風を入れる分、封じを弱くしてあるわ」リオナは立ち上がって船長のほうを振り返った。「だから、おまじない程度って事よ。でも、セイレンの起こす風くらいは防げる。問題は…」

と言いかけ、リオナは耳を澄ました。

「来たわ。この声よ」とリオナが言う。船長も耳に手を添えてみたが、何も聞こえなかったらしく「なんのことだ?」と聞いた。

「あなたに聞こえないってことは、術がうまく機能してるみたいね」と言って、リオナは西空に残った赤味を確認した。

「日が暮れる。なるべく早く岬を越えて」とリオナは船長に言い、「この船に銃器隊は居る?」と聞いた。

「ああ、護衛のために乗せている」と船長は答えた。

「夜に飛ぶ鳥が近づいてきたら、迷わず撃ち落とすよう頼んで」船長に告げ、リオナは水面を見下ろし、「私は海のほうを防ぐ」と言った。


船についてきていたイルカの群れが、突然おびえたように方向を転換して行く。カモメもほぼ同じタイミングで姿を消した。

セイレンの気配に気づいたらしい。

リオナの耳にも、風に混じって甲高い女性のような歌声がはっきり聞こえるようになってきた。

船を包む光に警戒しているのか、今のところ鳥型のセイレンはあまり近づいてこない。だが、何かが船の底に近づいてきたのが、術師には分かった。

リオナはすぐに右手を天に掲げ、光を集めた手を振り下ろした。

雷鳴が鳴り響き、光の塊が海の中に放たれる。船底に取りつこうとしていた魚型のセイレンが浮かび上がってきた。人間の頭を持った魚だ。

「まず一匹」リオナはこれからセイレンの群れの中を突き進もうとしていることを確認し、集中力を高めた。