セイレーンの声 3

夕靄が立ち込める前に、船尾のほうで銃声が聞こえた。

「なんだあの鳥は?!」と、誰かの叫ぶ声がする。

その声は聞こえていたが、リオナも海の中から船の底を狙ってくる影を追い払わなければならない。

タトゥーの刻まれた右腕を天にかざし、光の塊を作ると、船に近づいてくる大きな魚のような群れの影に向かって光の塊を強く投げつけた。

雷撃が走り、魚のような群れが散り散りに逃げて行った。雷の直撃を受けた数匹が、波間に浮かんできた。

「人魚って言うにはほど遠いわね」リオナは呟いた。

船の反対方向から近づいてくる魔獣の気配を感じたリオナは、甲板を走りながら雷の塊を作り、船の底を齧ろうとしていた魚型のセイレンに雷撃を食らわせた。

魔法陣の力に囲まれている船の周りの気配を、リオナは自分の身の周りに近づく気配と同じく感じ取っていた。

リオナは空を見上げ、「鳥の群れが来る!」と言った。その声が聞こえた銃器兵の数人が、魔法陣の光に照らされた空に舞う不気味な鳥に銃弾を放った。

撃ち落とされた数匹が、甲板に落ちてきた。人間の頭を持った鳥。深手を負った魔獣達は、口惜しそうに、がちがちと牙を鳴らして息絶えた。

「もう少し持ちこたえてくれ!」と、操舵室の窓から船長の声が飛んできた。「岬は通り抜けた! 後は追っ手を撒くだけだ!」

また海の中から忍び寄ってくる魔獣の気配を察し、リオナは船尾に向かった。

雷撃を起こそうとしたが、突然目眩に襲われて足元がふらついた。船ひとつ分の巨大な結界をはりながら、雷撃を起こすのは異常に消耗する。

パリパリと音を立てて、結界が弱まった。その隙をついて、鳥型のセイレン達が船尾にとりつこうとした。

「触るな!」と、エリックが叫んだ。船尾の魔法陣が強く光り、セイレン達の目をくらませた。

「リオナ! 大丈夫?!」と、闇の中にぼんやりと姿を浮かべたエリックが、リオナの右肩に手をかけた。温かい力が流れ込み、意識を失いかけたリオナは我に返った。

「ありがとう。もう大丈夫」と言って、リオナは甲板の魔法陣の中に入った。

「船長に伝えてきて!」と、リオナはエリックに言った。「船の推進力を上げる。一気に追っ手を振り切る! 舵を頼んだ!」

「分かった!」と一声答えて、エリックは光の粒に姿を変えると、壁をすり抜け操舵室の中に飛び込んだ。

舵を取っていた船長は、すぐにエリックの気配に気づいた。エリックは、どうすれば良いか分かっていたように、船長の頭に触れた。

記憶したリオナの言葉を再生すると、船長は力強く、「任せろ!」と言った。

光を放つ船が、波の中を滑るように走り出した。

エリックは、舵を取る船長の腕に移動し、ぶつかる波にぶれそうになる舵取りに力を貸した。

甲板に居た者達は、ガタガタと揺れる船から落とされないように、身をかがめ船の縁につかまり、疾走する船が止まるのを待った。

波が荒れ狂い始めた。セイレン達の最後の悪あがきだ。

突然高波に持ち上げられた船が、叩きつけるように波間に落ちた。

甲板に居た何人かが放り出されそうになったが、結界に弾かれて船の中に留まった。

だが、ひとうねりの高波に甲板が洗われ、リオナが甲板の外に投げ出された。

船長の目からそれを見ていたエリックは、「リオナ!」と叫んで、海の中へもぐった。

進んでゆく船から取り残され、リオナは水中でもがいていた。水に対抗する術を使おうにも、結界をはったままでは魔力が足りない。

「今結界を解くわけにゆかない」その意識だけを残して、リオナは気を失った。

右腕のタトゥーから、少しずつ魔力が途切れて行った。


チカチカと、今にも切れそうなランプのように光りながら、船は荒波を乗り切った。

波が少し凪いだのを確めるように、パチンと音を立てて魔法陣の光が消えた。

船を追って来ていた魔獣達が、海の中を漂っているリオナを見つけ、いっせいに群がってきた。

セイレン達の牙がリオナの体に届きそうになった時、風の塊をぶつけたように、リオナの周りの海水が凹んだ。

巨大な空気の渦に巻き上げられるように、リオナの体は空中に浮かびあがり、瞬く間に船のほうに吹き飛ばされた。そして、ゆっくりと甲板の魔法陣の中に下ろされた。

何かに胸を押され、リオナは飲み込んだ海水を吐き出した。

水の中から、透明な鉱石をつけた杖が浮かび上がり、リオナの傍らにカランと落ちた。

「エリック…?」と、リオナは呟いて、体を起こし辺りを見回した。

何気なく、右手で杖をつかむと、じんわりと暖まるような力を感じた。

甲板に居た船乗りや銃器兵達が、リオナの周りに集まって来た。起き上がって周りを見たリオナを囲んで、突然喝采が起こった。

操舵室から船長が出てきて、リオナに握手を求めた。

リオナはぼんやりしながら船長と握手をかわし、エリックの気配を追った。だが、何処にもいない。

船長がその様子に気づき、「あのチビ助を探しているのか?」と聞いてきた。「あいつなら、あんたの周りに居るよ。どでかい霊魂になったもんだ」

そう言われて、リオナが自分の両手を見ると、そこに重なるように滲むような空気の塊が纏いついていた。


そこからの航海は順調だった。甲板で風にあたっているうちに、リオナの服も髪も乾いた。

朝日の中に、目的地の大きな島国の影が見えてくる。

服が引っ張られる感じがして、リオナはエリックが部屋へ戻りたがっていると分かった。

「そうね。そろそろ戻りましょうか」と言って部屋へ帰ろうとしたリオナに、一人の船乗りが声をかけた。「魔女さん。あの魔法陣は、取っておけないのかい?」

「ブラシで磨いてれば、そのうち消えるわ」とリオナが言うと、「せっかくの記念品なのに」と船乗りは残念そうにため息をついていた。

部屋へ戻ると、ナターシャが抱き着いてきた。「アリガトウ、リオナ」

「ナターシャ。塩だらけになるわよ」と言って、リオナはナターシャを押し戻した。

「アナタ、コノフネヲ、スクッタダケジャナイ」ナターシャは興奮気味に言った。「アルバルノクニガ、セイレンノ、ソンザイヲ、ミトメマシタ。アナタ、アノミサキヲトオルフネ、ゼンブヲスクッタンデス」

「情報が早いわね」とリオナは言った。「誰が国に報告したの?」

「サッキ、デンワガアリマシタ。マジュウニ、オワレテル、ヒカルフネヲ、ミツケタヒトタチガイルンデス」

ナターシャは嬉しそうに打ち明けた。

「ワタシノオジイサンタチデス」

「おじいさんは英雄ね」と言って、リオナは二段ベッドから荷物を下ろすと、「そろそろ港に着くわ。人が集まってるでしょうけど、私のことは秘密にしてね」とナターシャに言った。

「ナゼデスカ?」と、ナターシャはきょとんとした顔で言う。

「まだ修業中なのよ。英雄になるには早すぎるわ」と言って微笑むと、リオナは人に紛れて、さっさと船を降りた。

甲板に落ちていた鳥型のセイレンの死骸が、アルバルの港の役人達に引き渡されていた。

役人と話していた船長が、人陰に隠れながら船を降りて行ったリオナを見つけ、無言で軽く帽子を上げて見せた。

「まずは洗濯とお風呂ね」と呟き、リオナは港町の宿を探し始めた。

その後に続くように、生前の姿を失ったエリックが、一陣の風となって着いて行った。