Silver Keys Ⅲ 4

まだ朝日が昇っていないことと、片手にシエラから受け取った薬瓶を握っていることを確認し、レナはパジャマ姿のまま、急いで父親の書斎に行った。

レナから事情を聴き、父親は娘に「少し離れてろ」と指示を出した。

書斎の椅子に座ったまま、父親は胸の前で上向けた両手の中に薬瓶を置き、深呼吸をして薬瓶に魔力を送り始めた。

薬瓶がナイトの手から離れて宙に浮き、白い光を放つ魔力が、薬瓶の中に少しずつ満たされて行く。

すっかり魔力が行き渡ると、父親は手の中に下りてきた瓶をつかみ、「私にできる、可能な限りの治癒の魔力を込めた」と言った。

東の空から、朝日が射し始めた。書斎住んでいるもの達が、大急ぎで遮光カーテンを閉める。

庭からエリーゼの悲鳴がしたのに、ナイトとレナは気づいた。


レナが予知した通り、エリーゼの怪我はひどいものではなかった。だが、エリーゼは噛まれてから数分も経たないうちに意識を無くした。

朝日が昇ろうとしていたので、ナイトは外に出られない。代わりに、着替えてきたレナが薬瓶を持って、救急車に乗せられた母親に付き添った。

救急車の中で、エリーゼの腕が消毒され、包帯が巻かれようとした時、レナは「薬を塗らせて」と、救急隊員に申し出た。

「私の家に出入りしてる薬師の人が、母様のために特別に作ってくれた薬なの。副作用なんてないから」

と言うと、救急隊員はレナに手袋とピンセットと脱脂綿を渡し、薬瓶中の液体が安全に塗れるように配慮してくれた。


レナは、病室で、「観た」とおりの光景を目の当たりにした。左腕に包帯を巻かれたエリーゼは、点滴を受けながら昏々と眠っている。

予知と違う所と言えば、花のブーケの代わりに、自分が母親を見守って居る所だ。

薬に宿った父親の魔力が弱まる気配を察しては、ナースコールを押して、看護婦に包帯を解いてもらい、エリーゼの腕に薬を塗っていた。

だが、エリーゼが目覚める気配はないまま、薬瓶の薬だけが少なくなって行った。

レナは心細さを覚え、薬瓶を持った手でエリーゼの手を握って、「母様。遠くへ逝かないで」と祈った。

レナの手からエリーゼの腕にかけて、白い光がほとばしった。

エリーゼの手が、急に熱くなった。レナは、エリーゼが忍び寄っていた「死」と戦っていることが分かった。

レナの頭の中に、エリーゼの意識が流れ込んできた。洞窟のような場所で、黒い霞のような霊体から逃げまどい、追い詰められたエリーゼは体力の限界を感じてうずくまっていた。

だが、霞のような霊体はエリーゼに近づけない。エリーゼの周りに、白い魔力の壁があり、霊体が近づこうとすると、文字通り霞のように消えてしまいそうになるのだ。

「母様、私の力なら、いくらでも分けてあげるわ!そいつを近寄らせちゃだめよ!」と、レナは強く念じた。

薬瓶の中に残っていた液体が、一瞬で蒸発し、ガラス製の瓶を割って、エリーゼの腕の傷口に吸い込まれて行った。

エリーゼの意識の中に、レナの父親、ナイトが現れた。霞のような霊体に向かってナイトが腕をのばし、手の平から巨大な火炎の魔力を放った。

霞のような霊体は、焼き尽くされて形を失い、一瞬犬の姿になると、消滅した。

エリーゼの背後に在った洞窟の壁が、ぼろりと崩れた。外の光が射しこむ。洞窟の壁はボロボロと崩れ、晴れやかな外の景色が見えた。

「さぁ、ここを出よう」と、エリーゼの意識の中で、夫が片手を妻に差し出して言う。

本来は、絶対に出られないはずの、真っ青に晴れ渡った空の下を、ナイトはエリーゼと恋人同士のように手を取って歩いて行った。

それを洞窟の中から見送ったレナは、ハッピーエンドで終わった映画を見ているような気分だった。


「レナ。レナ? どうしたの? 起きて、レナ」と、母親の声がする。

レナは、母親の横たわったベッドの枕元に顔をうずめて、眠っていたのだ。

飛び起きると、エリーゼが驚いたような顔でレナを見た。

「レナったら、割れたガラスなんて持って…大丈夫? 手は切ってない?」と、レナの片手の中を見てエリーゼが聞く。

「母様…。大丈夫なのね? なんともない?」と、レナが聞くと、エリーゼは何かを懐かしむように、「ええ、なんともない。あの人は、約束を破ったことはないもの」と答えた。

「父様が、助けてくれたのね?」と、レナは確かめた。

「やっぱり、あなたもあの人の子ね。なんでもお見通しなんだから」と言って、エリーゼは娘を抱き寄せ、微笑んだ。

「まだ、母様が居なくなるには早すぎるわ」と言って、レナは頬を膨らませて見せた。「チョコレートケーキの作り方も教えてもらってないもの」


エリーゼはその日のうちに退院した。レナは、大急ぎで新学期の準備を始め、何とか眠る前までに生活用品と新しい学習用品の類をトランクに詰め込んだ。

「レナ。まだ起きてる?」と、自室にいるらしいルディの心の声が聞こえた。

「今眠るところよ。何かあった?」レナが心の声を返す。

「母様のこと。僕、何にも役に立てなかったと思って」ルディは気を落としているようだ。

「あら? ルディが、母様にサプライズしようって言わなかったら、私は昨日ブーケを用意することも無くて、母様の未来が分からなかったかも知れないわ」

レナは、弟を気遣って言う。

「今回の事件で、母様を助けたのは、ルディかもしれないのよ? もっと、自分に自信をもって。次期、ウィンダーグ家当主様?」

「うーん。やっぱり僕が継ぐことになるのかなぁ…」ルディは気後れしている。

「男の子は、責任重大ね」レナはくすくす笑いながら言い、「おやすみ」と付け加えて、ベッドにもぐりこんだ。