天と地と 1

客呼びの声も溢れる市場に、ローブ姿の魔女が買い物に来た。旅行鞄を持っているところからして、旅の途中らしい。

市場で干し果物とレモンと飲料水を買いつけ、魔女は一度宿に戻った。

彼女の持っているチケット通りの飛行船に乗るには、明日の朝3時までに、元船着き場だった、飛行場に居なければならない。

魔女は宿の自室で、ローブを脱いで肌着姿になると、「エリック。24時には起こして」と何もない空間に声をかけた。

「分かった。街の中をもう一周してきて良い?」と、魔女の耳に精霊の声が聞こえる。

「良いわよ。迷子に成らないようにね。おやすみ」と言って、魔女はベッドにもぐりこみ、夕方には寝付いてしまった。

夜の散歩に出た精霊のエリックは、活気のある港町を懐かし気に飛んで回った。

霊体のエリックは、食事を摂ったり飲み物を飲んだりは出来ない。だが、上空から風景を眺めることは出来る。

市場の賑わいや、街の明かり等を見て、エリックは荷馬車や人々の行き来する表通りの上を低く飛んでみた。

小さな女の子が、表通りを少し離れた横道に座り込んでいた。年の頃は8歳くらい。周りの人間達は、何も見えていないかのようにその少女を無視していく。

エリックはすぐに事情を察した。この子も霊体なんだ、と。

「こんな所で、どうしたの?」エリックは女の子に声をかけた。

女の子は、自分が声をかけられたのにびっくりしたように、エリックを見上げた。

「あなた、だぁれ?」と女の子が言った。

「名前はエリック。元は幽霊だけど、精霊になる修業中なんだ。魔法使いの女の人と一緒に旅をしてるんだ。君の名前は? なんでこんな所に居るの?」

「私はシオン」と女の子の霊は答えた。「ママが来るのを待ってるの」

「君のママは…生きてるの?」少し聞きづらそうにエリックは問う。

「生きてるわ。だから、毎日お花を持って来てくれるの」少女は拙く答えた。「私、ずっと昔に荷馬車に轢かれて死んじゃったの。ここで」

「そっか。何処かへ行ってみたりしないの?」とエリックは聞いた。「この街も、相当広いし。見物するところならいっぱいあるんじゃないかな」

「何処にもいかないわ。ママがいつ来るか分かんないから」と言って、少女は言葉を切った。

そこに、小さな白い花のブーケを持った老婆が訪れた。「シオン。今日はカスミソウよ」と、老婆は言って、少女の座っていた道の端に花を供えた。

老婆は花の前にかがみこむと、神に祈る三十字を切って、祈り始めた。シオンが立ち上がり、老婆の曲がった背中を叩いてあげた。

老婆は何も気づかずに、祈りを終えると家に帰って行った。

「随分おばあさんだね」エリックはシオンに声をかけた。

「うん。もうすぐ寿命が来るの。それで、私、ママが来るまで待ってるの」シオンはそう言って、花の供えられた道の端に座り込んだ。

「それなら、先に天で待ってれば良いのに」とエリックは言った。

「ママはきっと私を探しに来るわ。その時、魍魎達に追いかけられたら可哀想だもの」

シオンの答に、エリックは聞く。

「君は、魍魎達から逃げられたの?」

「うん。だけど、左手の指を一本もぎ取られたわ。だから、天には逝けない」

シオンはそう言って、小さな左手を差し出して見せた。確かに、小指が一本、切り取られたように無い。

「あなたは、魍魎に追いかけられなかったの?」不思議そうにシオンが聞いてきた。

「うん。船の事故で死んじゃったから、一緒に死んじゃった霊魂達がたくさんいたんだ。それで、魍魎は近寄ってこれなかったみたい」

エリックはそう言って、自分はある意味運が良かったことを実感した。

「僕、もう行くね。バイバイ、シオン」エリックはそう言って、空中に体を浮かべた。

「バイバイ、エリック」シオンは小さな手を振って、エリックを見送った。

エリックは、宙を飛びながら、なんだかやるせない気分になった。

もう帰ろう、そう思った時、24時を告げる時計台の音が響いてきた。


すぐ宿に戻り、眠って居た魔女の枕をゆすって起こした。

「リオナ。24時だよ。起きて」

魔女のリオナは、ベッドから起き上がって、目をこすった。まだ、外では24時を告げる鐘の音が鳴っている。

「時間に正確ね。ありがと、エリック」そう言って、リオナは部屋に取り付けてある洗面台で顔を洗った。

「リオナ。ゆっくり準備をしたいのは分かるけど…ちょっとお願いがあるんだ」とエリックは言う。

「お願い? 珍しいわね」リオナは答えながらタオルで顔を拭いた。「とりあえず、理由を教えて」

エリックは、リオナの額に手をあて、さっき逢った少女の霊の事情を、リオナの頭に直接伝えた。

「なるほど。お願いって言うのは、その子の左手を治してほしいってところかしら?」

リオナが言うと、エリックは「その通り」と答えた。