Trill's diary Ⅱ 8

薄暗い森の、しっとりとした空気が懐かしい。ルルゴ達を連れてディオン山に戻った私は、この山の森は安全だと告げて、ウサギの姿のままのルルゴをランプから呼び出した。

「実に豊かな森ですね。うむ。夏場にはこの肌寒い空気も心地好い」って、褒めてるんだかけなしてるんだか分かんない言葉でルルゴは言う。

エッジもランプから出てきて、鬼火の姿のまま、私の肩にとまっている。

少し歩くと、遠くに岩屋が見えてきた。

気配を察したらしく、お母さんがいつもの紫色のローブを着て、岩屋の前で待っている。

ルルゴと一緒に、駆け寄って「ただいま!」と言うと、お母さんは思ったより小柄だった。たぶん、お父さんからおまじないの握手をしてもらったばっかりなんだ。

「おかえりなさい」と笑顔で、少女の姿のお母さんは迎えてくれた。


祭の日が来た。私の用意した3つの小さな月見ランタンは、星屑の光を宿した指輪と、いくら食べても30分後には元通りに膨らむパン、それから、どんな傷でも治せる塗り薬と交換した。

魔術師や闇の者達が集まっている森の中に、その年もビオラの音が響いていた。

漆黒の髪とドレスの、新月の目をしたエドナが、舞うようにビオラを奏でている。

一曲が終わると、エドナが何処かに一瞬だけ視線を送った。ただ周りを見回しているのと同じ仕草だったから、他の人達は気づかなかったみたいだけど、私はその視線の先に気づいた。

真っ赤な炎みたいな髪をした、黒い皮膜の羽を持つその少年は、私のお父さんだった。

私は、昔、魔女のおばさんから聞いた話を思い出した。「エドナは、恋をしているのよ」。

子供の頃、祭の時には、いつも私の隣にはお父さんが居た。だから、エドナとしばしば目が合ったのだ。

お父さんは、何も気づいていないように、他の闇の者達と集まって、誰かを一泡吹かせた昔話をしている。

エドナは、悲し気に目を伏せて、次の曲を弾き始めた。


私は、祭の間、エドナに話しかけようかどうしようか迷っていた。ある曲が終わった時、勇気を出して話しかけようとした。でも、その時誰かが、後ろから私の肩を叩いた。

「やめておきなさい。彼女の憂いは、あなたには晴らせない」と、大人の女性の声がする。

その声のほうを見ると、サファイアのような透き通った青い目と、亜麻色の緩やかなウェーブの髪の、綺麗な知らない魔女が立っていた。

その顔を見て、私は誰かを思い出した。誰だろう? そっくりってわけじゃない。だけど、なんとなく似ている。

「もしかして…ルディ・ウィンダーグさんのお姉さん?」と、私が聞くと、その女性は事情は分かっていると言いたげに、「ええ。初めまして。私は、レイア」と名乗った。

「私はアリア…」と名乗ると、レイアさんは優しくうなずいた。「弟から、話は聞いてるわ」って言って。


レイアさんは、ルディさんが言っていた通り、占い師を生業にしながら、各地を放浪しているそうだ。放浪と言っても、行く当てがないわけじゃないの。

各地に、何度も訪れている、知り合いや顧客が居て、その人達の将来を定期的に占うために旅をしているんだって。

普通の人間は訪れない未開の地や、辺境、もしくは魔術に頼ってるなんて思われもしない近代的な国のオフィス街まで、色んな場所を巡っているらしい。

レイアさんが唯の人間だったら、私もびっくりするところだ。でも、彼女は吸血鬼のお父さんと人間のお母さんのダブル。体力や気力、魔力だって強い。

周りを気にして、その時は力を抑えてるみたいだったけど、レイアさんの近くにいるだけで、すごく洗練された力強いエネルギーを感じた。

私達は、少し誰も居ない場所に行って、私が気づいた「エドナの恋の相手」のことを、レイアさんに打ち明けた。レイアさんも気づいてたみたいだけど、なんにも言い返さずに私の話を聞いてくれた。

ビオラの音が、低く、時に甲高く、月夜に泣くように響いている。

私の話を全部聞いてから、レイアさんは答えてくれた。

「恋は、叶えるだけのものじゃないわ。彼女の心は、想い人には伝わらなくても、この素晴らしい響きを創り出している。想いを奏で続けること。それが、エドナの成すべきことなのよ」

「大好きな人から、大好きって言ってもらえなくても?」と、私は幼子に戻ったように単純なことを聞いたみたい。

「ええ。奏でることで、エドナの想いはみんなに届いてる。誰かが言ってたわ。この祭に参加するものは、一度はエドナの音色に恋をして、エドナの主人である魔術師に嫉妬するんだって」

私はそれを聞いて、気落ちした顔のまま、ちょっと笑っちゃった。たぶん、変な顔に成ってたと思う。

レイアさんもクスクスって、ルディさんとおんなじ笑い方して、「さぁ、みんなの所に戻りましょ。年代物のワインが空っぽにならないうちに」と言うと、私を連れて祭の輪の中に戻った。


誰よりもエドナの曲に感激している者が居た。ルルゴだ。両眼から滝のように涙をあふれさせ、歯を食いしばって感動に打ち震えている。

そして、エドナが一曲弾き終わると、ウサギの姿のまま、誰よりも素直に、エドナに握手を求めに行っていた。

「私が、この世に生まれて、このような感激の極みに至ったのは、今宵が初めてでございます。奏者様。あなた様のお名前を拝聴し、我が耳に刻むことが出来たら…」

とかなんとか、よく分からないことを言っていたけど、つまりは「とても感激したので名前を教えて下さい。ファンレターを書きます」と言うことが言いたいらしい。

ウサギにまで恋されちゃうなんて、エドナもきっと困っただろう。

私は、初めて飲むお酒にくらくらしながら、ワインを3杯あおったあたりで意識を失った。


翌朝、岩屋のベッド中で起きてから、意識のない間に何か変なことやらかして無いか心配してたんだけど、お母さんとお父さんが言うには、私はすっかり泥酔して眠りこけてたそうだ。

エッジは鬼火の友達を見つけて、朝になるまで騒いでいて、ルルゴはエドナと別れる時、泣きっぱなしで手が付けられなかったらしい。

レイアさんは、眠り込んでしまった私をおぶって岩屋まで運んでくれて、お父さん達に挨拶をして旅に戻ったそうだ。

親戚のお姉さんに会えたって言うのに、酔っ払って眠りこんだまま、ろくろく普通の会話もできなかったなんて。私、悔しくて顔面から火が出そうだった。

魔術のこととか、旅のこととか、会えたらもっと話したかったことがいっぱいあったのに。

レイアさん、来年も祭に来てくれるかなぁ。