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時々徒然

随筆を書こう

随筆の意味「文章・構成・素材・用語等について自由な態度で書いた散文の文章。(中略)。ジャンルに属さない物を随筆とする定義もある。随筆の魅力は気楽な発想で、肩の力を抜いて書いた文章の味、筆者の人柄の露呈した部分にあり、炉辺談話の面白さに通じる」 by 福武国語辞典。

肩に力の入っていない筆者の人柄の露呈した文章…それは前も書いていたけど、それだとあまりにカオスだから襟を正したいと思っているのだ。そうすると、随筆ではなくエッセイになってしまうのか。

エッセイはそんなに書きたくないんですよ。ポエミーでリリカルな言葉で生活を彩りたいと言うわけではないので(エッセイへの偏見)。

俺が肩の力を抜いて、普通の人みたいに普通の事を書くと、大体は愚痴と体の不調と、お腹が減っているって居る話になると思う。全てはちゃんとしたご飯を食べないから悪いんですよ。その原因は分かっているんだけど、ご飯を食べたくないんですよ。だけど近所のデパートの食品コーナーで売っている鮭弁当は美味しい。

鮭弁当はたまのご馳走ですね。普段はカレー(54円)と、レンチンの米(90円くらい)で済ませてるから、200円しない食事で満足している。流石にそれだけだと体調を壊すので、ビタミン剤と栄養補助のサプリを飲んでいます。

なんか、ずっと昔から考えてるんですけど、人間って「何もしなくて良い環境」に居ると、食うか飲むか眠るかしかしないんですよ。現生人類の脳は「常に刺激が欲しい」って言う構造をしているので、大自然な状態だったら「風の音」とか、「水の音」とか、「話す音」とかを常に欲するらしいんですけど、現在で常にある情報をまかなてくれるのは、「ラジオ」「テレビ」「スマホ」「パソコン」とかですね。

それらの情報媒体を点けっぱなしにして、何かを食いながら、ダラダラする…と言うのが、「何もしなくて良い状態の人間の時間の過ごし方」なんだろう。

そう言う、「豊富な時間を与えられた人」の中に、情報を作り出したいなって言う頭の使い方をし始める奴がいると。そう言う人達が、短絡的な所では情報収集をして別の人に伝えたり、夢を見て幻想を語ったり、言語に因らない情報をとして道具を作り出したり、衣服を作り出したり、絵(図画)を描き始めたり、と、色々作ってきたわけだ。

もちろん、何かを作り出すと言う発想の無い脳の構造をしている人もいます。

何かを作り出す事が「生存」に必要だって考える脳のタイプをしている人は、多かれ少なかれ何かを作り出します。食べる時間や眠る時間を惜しんでまで何か作ります。「何か作る事」が「集団の中で生きる事」になってるからなんですね。

現代の日本の普通の人には、「勉強をして、就職して、働いて、結婚して、子供を作って、子育てをして、子供が自立して、子供の子供が生まれて、その子が大人に成る頃に晩年になる…」って言うのがオーソドックスな生き方なんだろうと思います。

このオーソドックスな流れの中に、どう味付けをするかとかで「人生の面白み」をつけるんだと思うんですよ。僕個人はオーソドックスな生き方をして居ないので、想像するしかないんですけどね。

ちなみに、先に提示したオーソドックスな生き方で、「子供が自立して」の後がとても長い省略になっているのにお気づきでしょうか。子供の子供が生まれて、その子が大人に成る…つまり2回、赤子と言うものに関わるループが来るんですよ。普通の人は。

その赤子の成長を楽しむとか、赤子の成長に関わるとかすれば「膨大なる暇時間」も潰せるかもしれませんが、自分の子供に関わるのは「濃厚接触」で、孫に関わるのは「触れ合う」くらいの接触です。

趣味を持っていない人が、晩年に「食う・飲む・眠る」しか、何もすることが無かったらどうなるのか。短く言うと、「牛飲馬食でぐーたらする」になります。そう言う「生存するのに何も困らない状況」が続くと、人間はボケます。頭が働くのをやめてしまうんですね。

そうすると、痴呆と言うものにかかります。「自分は何もしなくて良い」「何も考えなくても生きていられる」ってなると、頭の機能が段々劣化して行って、「狂ってしまう」のですよ。20代30代でその状態になったら病院に入れられますが、老人はその状態になっても生きていられるから、放置された老人はさらに狂気が加速します。

晩年には趣味を持ったほうが良いって言うのは、頭の働きを劣化させないための工夫なんですね。