夏の午後6

小説の登場人物を殺すときに(登場人物が死ぬ展開になった時に)、悦るような快感を覚えたりする? って聞かれたんですけど、そこまで変態ではありません。元々、死んでしまう要素とかのある登場人物にそんなに感情移入しないし、物語上その展開が必然であった場合に登場人物が亡くなるので、そんなに「殺してやったぜ」とか思わない。
架空の殺人を楽しむために小説を書く人がもしいたとしても、一々ハイにはならないと思う。例えば、バタバタと誰かを殺傷してく展開になったとして、その殺傷される人A、B、C、D…X、Y、Zにまで全部設定を付けて感情を込めてその人物のための歴史を作って…それを壊す事に美しさを感じるなんて言う奴は、小説を書いていないと思うので。
もしくは、そう言う変な所にこだわって、殺される人物の歴史と背景と事象を全部書ききって、そいつが今ばたばたと殺されて行く、命と言うのはなんと儚いのか、世と言うのは何と無情なのか、みたいな書き方もあると思うけど、それでは「ハイになるために滅茶苦茶頭使う」ので、物語として決着する時には一大人物史になってて、架空の殺人に対する快楽とかないと思う。
もしくは、アドラーっぽく言うと、そう言う架空の殺人の快楽を誤魔化すために人物史を書いているんだって言う言い方もできるけど、登場人物の死についてこだわりたい人はこだわれば良いと思います。
本当、悦るために人間像を考えたい人って、小説を書いていないと思います。サディストの語源のサドさんは獄中でサディスト小説を書いてたそうですけど。ああ言う、あふれ出る次なる妄想がわいてくる人は、ある種の別格なのです。
何故なら、文章にしたら「楽しい妄想」が終わっちゃうからなんですよ。文章に書き留めた途端、イメージはある程度固定化されるから。頭の中で何度も考えることを楽しみたいと言う人達に、文章というツールは不向きなんですね。
展開している状況を考え続ける事が「悦る」と言う事なので、悦りたいために文章を書くって言うのが、まず本末転倒なんです。悦るために考えるんだったら、文字は要らないんですよ。
なので、文章の中で誰かを殺している(探偵小説とかホラーとかの)作家さんが、楽しむために登場人物を殺しているのかって言ったら、ちょっと違うと思うんですね。
探偵小説からホラーってふり幅大きいだろうけど、その世界での死は現象であって、その現象に対して、「どのようにその現象が起こったのか」を色んな角度で描写する事で、探偵小説になったり、ホラーになったりするんだと、僕は考えています。
ですからね、例えば僕が猫谷園さんについて考えている時は、決して「誰かに僕の文章を読んでもらいたい」と思って描いた文章ではなく、僕の頭の中には猫谷園さんと言う猫が住んでいますって言うちょっとした紹介なんです。
以前もこのコーナーに書きましたけど、「猫の耳が山だから、間は谷で、其処には『猫谷園』と言う、猫毛を栽培する場所があって…」って、意味不明でしょ? 僕は書いてて下らなさが面白いけど、あくまで僕個人の頭の中で考えていて面白いだけなので、「その猫谷園で栽培された猫毛を茶葉にすることによって新種の茶が生成されて…」とか言われても、「う、うん…」てなるだけっしょ。
そう言う時の文章って、物語では無く設定をずっとしゃべってるのと同じなんですよね。自分の気分が良くなる設定を綴ると言う、物書きにとっては虚しい行為です。
なので、何度も同じシーン(の設定)を考えて気持ち良くなりたい人って言うのは、小説を書けません。文章が書けたとしても、小説に成りません。
そう言う訳なので、「すごく面白い設定を考えられる」って言う人は、「すごく楽しい妄想が出来る」って言うのと同じなんですね。そう言う人の文章は、妄想(設定)を説明するための文章になってしまいがちなので、それだけでは小説にはならんよって事です。
その面白い設定を「面白い物語」にするために、描写力と展開と世界観が必要なのです。この三つをバランスよく扱えると、自分でも「面白い。続きが書きたい」って言う物語を書けるようになるので、小説が書きたい人は設定を考えるだけの状態から、ちょっと頑張ってみて下さい。
自分が「俺の世界大好き。刺激的」って思っている設定であっても、読んでる人が「そう言う気持ち悪さは要らないのよ」って成ったら、それはそれで破綻していると言う事なので、物書きとしてレベルアップしたい! という欲求があるのであれば、他人の目線もちょっと気にしたほうが良いです。
ウェブ作家レベルから同人誌レベルから商業誌レベルまで、何処にでも発表の場はあるので、物書きさんにとっては良い時代だと思います。