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時々徒然

得はしていないのだが

今日、コンタクトレンズを作りに眼科に行った。そして、いつも使っているコンタクトレンズが思ったより安かった。大体予想の半額くらい。

嬉しくなったので、帰る途中にマクドナルドによって、海老フィレオセットを食べてしまった。640円した。接客の人が東洋系の外国の人だった。ちょっと喋り方が訛ってた。何故か部分的に英語発音。

海老フィレオはサクサクで、ポテトもサクサクで、果物ジュースも美味しかったのだが、140円オーバーしてしまった。

お腹いっぱいになって帰る途中、よく考えてみた。出費しかしてないのに何喜んでんのって言う、天使だか悪魔だかよく分からないものが頭の中で囁いていた。

だが、俺の中の「とてもおりこうさんな気分」は、ちょっと早い春先の陽気によって活性化され、海老フィレオは美味しいと言う記憶で上書きされてしまった。

上書きされてとても幸せな気持ちになった俺は、そのまま家に帰って、昼寝をするに至った。すやすやと1時間くらい眠った。

それからYouTubeを見て、悩みや考え事がある時は、文字にして書くと整頓できると言う事を覚えた。って言うか、ずっと前からそう言うのを実行していた覚えがある。

やらなきゃならない作業だったり、買って来なきゃならないものだったり、必要のある家事だったり、なんでもメモに書いて置いておくって言う習慣が元々あるのだ。

だいぶ前はそう言うのをやって無くて、全部頭の中で考えてたんだけど、人間と言うのは色々考えてると頭が重くなる。そこでメモに書いて「これだけ済ませれば良し」って言うのを可視化していた。

この文章も、ある種の思考の可視化である。海老フィレオと言う好物を見つけたのが嬉しいのだが、そいつは500円以内では食べれないのだ。

海老フィレオもたまのご馳走と言う事にしておこう。

頭の中の情報の可視化と言うと、今、ちょっと整頓しておきたいことがある。歴史に関する事で、しかも日本史。

神道と仏教が混在していた神仏習合(しんぶつしゅうごう)」と言う時代に、僧侶や神主と言う人達がどんな主張していて、どんな信仰の仕方をしていたのかとか、そう言う事をWikipediaで読んでいる。

神道が「氏」とか「村」とかによる、土着宗教の発生からなるとか、仏教が入ってきたことによって神道の神と言うのが「仏の化身」であるとされたとか、

本来、死者の世界として立ち入ることを禁じられていた山の土地が、仏教的価値観からすると「この世の浄土」とされて、何故かお参りに行く人が急増したとか。

その、死者の世界とされていたのは「熊野」って言う土地なんだけど、その件を読んでから、「昔は黄泉の国は地上にあった」って言う概念がなんとなく分かりました。実際地上にあったんだって。

昔話とかで読んで、そう言うものなんだからそう言うものなんだって言う「設定」として頭の中に組み込まれていた事が、なんとなく落ち着いてきている。

その「神仏習合」の話を一通り読んで思ったんだけど、神様と言うものに、みんな「祟られたくない」し、死や穢れを「怖いもの」だと思いたくないって言うのがあるんだろうなと。

イエス・キリスト以前の砂漠の民の宗教って、一神教の「怒れる神」だったってどこかで聞いた覚えがあるのだが、そう言う「神様は怖いもの」って言う考えが一般だった世界で、

イエスさんが「神は人間を愛している」って言い出したのが画期的だったのと若干似てる? かな?

だけど、なんでキリスト教が布教されて行く中で「暗黒時代」と呼ばれるものがヨーロッパに発生したのかも気になるな。これも後で調べておこう。

吉田神道って言うのの教義の元に、もともと自然崇拝だった神道と言うものが、人間の一部を神と呼ぶようになったって言うのも分かった。

歴史の教科書より面白いのである。Wikipedia。時々、問題のあるページって言うのがあるけど、それは迂回しよう。