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時々徒然

朝7時に起きて

朝に文章を書くと、アーティスト脳と言うのが活発に活動すると聞いた。A4くらいのノートに3ページくらい、何か書くと良いらしい。しかも手書きで。

俺は起きてすぐに文章が書けるのか分からんので、邪道だがパソコンを開いた。話のネタが思いつくのかを待った。30分、何も起こらなかった。さらに待った。30分、何も起こらなかった。

8時のアラームが鳴って、アラームをとめて、さらに待った。30分、何も起こらなかった。パソコンを閉じた。そして勤めに出かけた。

何も思いつかない時は、「何も思いつかない」って、ひたすらノートに書くと良いらしい。そう言う風に、言語野を疲れさせて、脳の働きを右脳優勢にすると、アーティスト脳が働くんだそうだ。

そのA4のノートは、基本的に誰にも見せないこと前提で書くものなんだって。ノートと、自分だけの秘密の情報をやり取りするって事で。

ノートには、結論から書いてはいけないらしい。その結論に至るまでの紆余曲折を経て、グニャグニャと色んな方向に考えを伸ばしながら結論に到達するって言うのが、

頭を使っている人の「ノート」の書き方なんだそうだ。よくある、結論を書いてからその説明を書くって言う、作文みたいな書き方は、秘密の「ノート」を書く方法ではないと。

作文は、先生に見られることが前提で、採点をしてもらって、「文章として読みやすい物である」と言う点数をもらわなければならない。

だが、「ノート」には、蛇足も過不足もあって、後でそのノートを読んでみて、「自分ってあほだなぁ」って思うくらいの内容を経て、答えを出さなければならないのだと。

なければならないと書いたが、普通に「思考を追うためのノート」「言語野を疲れさせるための文章」だったら、確かに起承転結なんていらないし、展開とか考えなくて良い。

誰にも見せないノートなのに結論から書いてあるとかのパターンは、それこそ「作文型」の書き方で、そのノートを他人が読んだ場合、「気取っているようにしか思えん」って言う風になるらしい。

でも、「気取ってる風にしか思えん」って思っている、その人物が読んでいる時点で、確かに第三者の目線を意識してしまう人が少なからず出て来るのは仕方ないのかもしれない。

だって、結論を先に書く方法は、学校で「こう言う描き方が読みやすい文章」って習うんだもん。

そして絶対に秘密のノートのはずなのに、それを読んで添削しているその先生が存在するんだもん。結論文頭型の文章を書く生徒の数百人くらいは存在して仕方ないと思う。

しかしだ。結論文頭型でも、「生きる事とは」とか、「人生において」とか、「諸行無常の云々」って言う事を文頭に書いてもそんなに面白くないだろうとも思う。

そう言う文章は、頭を疲れさせるためのノートじゃなくて、酒の席とかで談話をしている間に辿り着く話題だと思うからだ。

秘密のノートなのに定期的に先生に観られるとかだったら、目玉焼きは半熟が正しいのか固焼きが正しいのかを文頭に持って来て、自分の目玉焼きへの愛を述べるとかのほうが面白いと思うけど。

「半熟の正しさとは何か」。柔らかい。ジューシー。ただし、奴等は皿を汚すのだ。とか。「固焼きの正しさとは何か」。歯ごたえ。満足感。しかし、奴等は口をぱさぱさにする。とか。

この2つの対比に従って、自分の皿が汚くならずに口がぱさぱさにならない目玉焼きを目指せばいいのだ。

もしくは、固焼きの目玉焼きにはソースをかけるのだ。ウスターソースはよろしくない。さらっと流れて皿が汚れてしまう。とんかつソースくらいの粘度が欲しい。

目玉焼きにとんかつソースをかけることを拒むのであれば、やはり半熟の目玉焼きを作るしかないのか。いや、半熟でも、白身から制覇して行って、最終的に黄身を一口で食べれば皿は汚れない。

つまりは食べ方で解決するのだ。って言うのが、この文章の結論。目玉焼きが食べたい。